「白虎隊」の悲劇を生んだ会津若松城にはハンカチ持参で!

≪会津若松城≫
【種類】:平山城、【所在地】:福島県会津若松市追手町、【築城年】:1592(文禄元)年、【遺構】:石垣、土塁、堀、復元天守、復元城門、復元櫓、【注目ポイント】:①打込接(うちこみはぎ)で積まれた、本丸東側の美しい高石垣。②五重の天守の内部に展示されている会津の文化財。

室町時代に築かれた葦名(あしな)氏の黒川(くろかわ)城を、蒲生氏郷(がもううじさと)が1592年から改修し、五重七階の天守を築いて、名称も黒川から若松(わかまつ)に改めました。その後も蒲生氏や加藤氏によって、空堀を水堀に変えたり、大地震で破損した七階の天守を五階にするなど、数度にわたって修築が行われた結果、東北地方屈指の名城となりました。

幕末の戊辰戦争(ぼしんせんそう)において、会津藩と新政府軍との戦いの中、会津若松城は1ケ月もの籠城に耐えて、堅牢ぶりを遺憾なく発揮しました。その堅固な城に多用された石垣は野面積(のずらづみ)をはじめとする様々な技法のものがありました。しかしながら戊辰戦争でのダメージにより、明治の初めに天守が取り壊されましたが、1965年に再建されています。この城のことを地元では「鶴ヶ城」と呼んでおり、かつては伊達政宗や上杉景勝(うえすぎかげかつ)も城主となった時代がありました。

さてここで、戊辰戦争が生んだ悲劇のひとつである白虎隊についてご紹介します。
白虎隊は本来、予備兵力と考えられており、隊は士中隊、寄合隊、足軽隊の3隊、およそ340名程度から成っていました。その白虎隊が装備していた火器は旧式銃のみだったそうで、火縄銃よりはましという程度のものでした。ただ白虎隊だけが旧式の装備を与えられていたわけではなく、軍備の更新を行わないまま戊辰戦争に突入した東北諸藩のほとんどの装備は、新政府軍の主力である薩長をはじめとする部隊の装備に対して著しく劣っていました。

会津藩では若松城を死守すべく、若松へと至るそれぞれの街道口に主力部隊を展開させて防備に努めていましたが、圧倒的な物量をもって迫ってくる新政府軍に対しての劣勢を覆すことが出来ず、そのうえ重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗するという防衛戦略上の不備も重なって、本来は城下防衛をするべく組織された白虎隊もこれを支援するために前線へと進軍していきました。少年兵の投入が戦局に与える影響がほとんどないということを誰もが承知していましたが、老若男女が玉砕覚悟で臨む戦いの中にあっては是非もなく、白虎隊は各防衛拠点へと投入されたのです。

しかし会津軍の劣勢はどうにもならず、白虎隊も各所で苦戦を強いられました。そのなかでも最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされ、このうち一番隊は藩主・松平容保の護衛に当たったが、二番隊は戸ノ口原の戦いにおいて決定的打撃を受けて潰走し、戦死者も少なからず出たため、負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びました。しかしここから眺めた戦闘による市中火災の模様を若松城が落城したものと誤認してしまい、総勢20名が自刃し、一命を取り留めた飯沼貞吉を除いた19名が死亡してしまいました。

このような悲劇があった会津若松城ですが、その戊辰戦争では時には一昼夜に砲弾約2,500発を撃ち込まれても落城しなかった、まさに難攻不落の名城でもあります。皆さんもぜひ一度足を運んで、白虎隊が守りたかった城を目に焼き付けてみて下さい!