水に浮かぶ美しい砦のような今治城はあなたを虜にします

≪今治城≫
【種類】:平山城(海城)、【所在地】:愛媛県今治市通町、【築城年】:1602(慶長7)年、【遺構】:石垣、堀、復元天守、復興櫓、復興城門、【注目ポイント】:①昭和58年に復興された天守、②海水が引き入れられた堀

今治城は、1602年に築城の名手・藤堂高虎(とうどうたかとら)が、瀬戸内海の築城予定地に海砂をかき集めて築城に着手しました。1608年に高虎が目指していた直線的な城壁で囲まれた曲輪(くるわ)に、高石垣と広大な水堀を巡らせた画期的な城が完成しました。

今治城の内堀と中堀、外堀の三重の堀すべてには瀬戸内海の海水が引き入れられており、平城でもありましたが、巨大な海城としての性格も併せ持っていました。また本丸には日本初となる層塔型(そうとうがた)の五重天守が建てられ、その天守は飾りの破風(はふ)を持たず、各階が上階に向かうにつれ規則的に小さくなる形をとり、内部には攻撃用の武者走(むしゃばしり)を巡らせた当時では最新式のものとなっていました。しかしこの天守は高虎が転封(てんぽう)となった際に解体されて、その後徳川家へと献上され、丹波亀山(たんばかめやま)城の天守になってしまいました。高虎の後に入った高吉(たかよし)も転封した後、松平(久松)氏が城主となって明治維新に至り、その後廃城となって建物はすべて取り壊されてしまいました。

さてここで、今治城に関する逸話をひとつご紹介します。
今治城を築城する際、砂浜に巨大な城を造るための材料が全然足りなかったので、近隣の国分城や来島城、そして拝志城などが取り壊され、その壊した城から出た資材を活用して造ったと伝えられています。このように苦労した今治城の築城の際にあった面白い話が今も残っています。

主人公は築城を取り仕切る奉行だった渡辺勘兵衛というものになります。ある日、領地一帯に高札が立ちました。その高札には「船一杯の石材を運びたるものには同等の米を与える」と書かれてあり、事実高札に書かれたとおりに米は支給されていました。そのため、船頭たちは競って石材を船に山積みにして築城予定地に運びましたが、石材が予想以上に集まってしまい、藩にはそれに対する米の準備が出来ていませんでした。そこで勘兵衛は「石材はもう必要ないから持って帰ってくれ」と船頭たちにいいましたが、船頭たちもここまで来て持って帰るわけにはいきません。石材を浜辺に置いて帰ってしまいました。そうして捨てられたこの石を使って、勘兵衛は今治城の石垣を完成させたといわれています。知恵者である勘兵衛の名前を今に留めているのは、今治城の東入口にある高さ2.3メートル、幅4.5メートル、重量16トンの堂々たる大きさの「勘兵衛石」で、現在も勘兵衛の功績を賞して置かれています。

まるで一休さんを思い出させるようなゆかいな話ですね。こんな苦労の末に出来た、水に浮かぶ美しい砦のような今治城へ足を延ばして、実際に度勘兵衛石の大きさを見てみてはいかがでしょうか!