≪高知城≫
【種類】:平山城、【所在地】:高知県高知市丸の内、【築城年】:1601(慶長6)年、【遺構】:天守、櫓門、城門、御殿、土塀、石垣、堀、【注目ポイント】:①江戸時代中期に再建された、山内一豊が創建したものを忠実に再建した天守

関ヶ原の合戦での戦功により、土佐二十四万石を与えられた山内一豊が、遠州掛川(えんしゅうかけがわ)から長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)の築いた浦戸城(うらどじょう)に入城したものの、規模が小さく、城下町も手狭だったため、1601年に南北朝(なんぼくちょう)時代に大高坂松王丸の居城があった大高坂山(おおたかさやま)に築城を開始し、本丸ほかすべてが完成したのは、二代藩主・忠義のときでした。しかし1727年に城が火災に見舞われてしまい、追手門など一部を残して消失してしまいました。その26年後に元の姿に再建されています。

高知城は、山頂に本丸と二の丸を並べ、東側の一段下に三の丸と杉の段などの曲輪が連なって配置された縄張になっており、二の丸には藩主の居住空間である御殿が設けられています。またその縄張の中心に立つ天守は望楼型になっていて、最上階には山内一豊が掛川城を模して作ったといわれている廻縁勾欄(まわりふちこうらん)が付けられています。さらに天守に接続する形になっている本丸御殿(懐徳館:かいとくかん)は全国でも数少ない現存の御殿遺構として大変貴重なものになります。

さてここで、高知城を築城した山内一豊と妻の千代に関するあまりにも有名な逸話を改めてご紹介します。
1、 一豊が15歳のときに、織田信長による岩倉城攻めに参加した父が討ち死にし、一豊は城を追われて浪人となります。その後、身を寄せた牧村政倫が信長の家臣となった際に、一豊も信長に仕えるようになりました。一豊は金ケ先、姉川の合戦において活躍し、敵の放った矢が一豊の顔面を貫通するという深手を負いながらも、敵将をうちとったという話が残っています。

2、 妻の千代は、織田信長が安土に城を築いたころ、京都御所での馬揃えがあったのですが、一豊はまだ駆け出しだったため、良い馬を持っていませんでした。こんな貧相な馬で馬揃えに出れば夫が必ず恥をかいてしまうと考え、嫁入りの際に親が持たせてくれた持参金で一豊に名馬を買い与え、それが元で信長の目に留まり、一豊の出世が始まったといわれています。また関ヶ原の合戦の際、西軍の大将である石田三成からの裏切りを誘う書状の封を切らずに一豊へ届けることにより、家康の信頼を得たなど、良妻としての逸話が多く残っています。

3、 最後に山内家の家紋についてのお話ですが、山内家の家紋は三つ柏で、三菱のマークにそっくりなものです。これは三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎が土佐藩の出身ということで、土佐藩の家紋である三つ柏と岩崎家の家紋である三段菱を組み合わせて三菱にしたということです。

以上になります。高知城には山内一豊の像だけでなく、ちゃんと妻・千代の銅像も建っており、このふたりが高知市民慕われていることが容易に想像できます。こんな仲睦まじい二人にあやかるため、ぜひ一度高知城まで足を運んでみては如何でしょうか!