国宝の天守が美しい松本城をご堪能ください

≪松本城≫
【種類】:平城、【所在地】:長野県松本市丸の内、【築城年】:1590(天正18)年、【遺構】:天守、乾小天守、渡櫓、辰巳付櫓、月見櫓(以上国宝)、石垣、堀【注目ポイント】:①犬山城・彦根城・姫路城と共に国宝に指定されている天守、②月見櫓を従えた天守の美しい姿

室町時代の末期、小笠原(おがさわら)氏が松本の東の山麓に本拠となる林城(はやしじょう)を築いた際に、支城として築城した深志城(ふかしじょう)が松本城の前身といわれています。松本城という名前に改称したのは、一度は武田信玄の手に落ちたものの、武田氏が滅亡した1582年に、小笠原貞慶(おがさわらさだよし)が徳川家康の後ろ盾を受けて深志城を復興した際になります。その後、徳川家康の関東移封により、小笠原氏に代わって石川数正(いしかわかずまさ)が松本城に入って、城の大改築に乗り出し、本丸、二の丸、三の丸などを整備しました。しかし数正の代には完成せず、息子の康長(やすなが)に改修工事は受け継がれ、1592年現在に残る国宝指定の天守・乾小天守(いぬいこてんしゅ)、渡櫓(わたりやぐら)などが完成しました。

松本城の天守は、1615年に新造された五重六階 の大天守を中心として、北側で三重の乾天守を渡櫓で連結し、さらに東側で二重の辰巳附櫓(たつみつけやぐら)と一重二階の月見櫓(つきみやぐら)を複合させた複合連結式の天守となります。美しく均整のとれたこの天守は、犬山城、彦根城、姫路城の天守とともに国宝に指定されており、特に松本城の五重天守は姫路城とともに現在2基しか現存していない非常に貴重な建物となります。また天守の外壁は、どの階も下部を黒漆塗りの下見板で覆っていることもあり、松本城は別名、烏城ともいわれています。

さて、それでは松本城に関する逸話として、庄屋・多田加助の一揆の伝説というものがあますのでここでご紹介します。

ときは江戸時代(1686年ころ)、松本藩領内に暮らしていた農民は長きにわたる不作によって日々の糧にも困る暮らしを送っていました。松本藩は苦しむその領民たちに対して他藩の倍の年貢を納めるよう触れを出したのです。

庄屋の多田加助とその同士は、そのお触れの撤廃を嘆願するため奉行所に訴え出て、さらに加助らの行動に賛同する領民たちも各々が農具を武器として奉行所囲んで参集、あわや一揆か、という緊迫した事態になりました。その際、藩主の水野忠直は参勤交代に出て不在だったため、家老が代わって対応したものの、この騒ぎが幕府に知られ、もし松本藩の取り潰しにでもなったら、藩主に顔向けできないと思ったその家老は、加助たちに対し、一旦要求を飲むと騙して、集まった領民を解散させ、後日加助をはじめとする一族のもの全てを捕らえ、処刑してしまいました。

処刑の直前、松本城の方角を睨みながら「我が怨念で天守閣を傾けてくれようぞ」と絞りだすような声でいったと伝えられています。その後、実際に天守は傾いたのだそうです(実際のところは、その土地の地盤の悪化による傾きによるという話ですが・・・)。
40年後、水野家六代目藩主となった忠恒は、江戸城松の廊下において、乱心のうえ、刀傷事件まで起こし、水野家は改易されてしまいます。このことについて人々は、加助の祟りだと噂し、恐れおののきました。

その後、水野家の代わりに戸田家が松本へ入封した際、加助を義民として表彰し、丁重に供養しました。明治維新の後、加助らは義民として広く知られるようになったそうです。

皆さんも松本城へ見学に行った際に、城が本当に傾いているか確認してみて下さい!