≪松山城≫
【種類】:平山城、【所在地】:愛媛県松山市丸の内、【築城年】:1602(慶長7)年、【遺構】:天守・城門・櫓・石垣・堀・土塀・復元櫓・復元城門、【注目ポイント】:①万里の長城を思わせる珍しい「登り石垣」、②層塔型天守の完成形といわれた天守

松山城は、賤ヶ岳七本槍(しずがたけななほんやり)のひとりとして知られている加藤嘉明(かとうよしあき)が関ヶ原の戦いでの活躍によって伊予国の半分である20万石に加増され、1602年に道後平野の中央にある標高132m(平山城としては全国で一番高い)の勝山の山上に築城を開始したことに始まります。
五重六階の連立式天守をはじめとして、二の丸及び三の丸を配置した大城郭となり、完成には26年掛かりましたが、その時の城主は加藤家ではなく、蒲生家を経て松平家になっていました。

その後、松平貞行(まつだいらさだゆき)が幕府に遠慮して、五重の天守を三重に改築し、そして楼櫓(ろうやぐら)を改修しました。しかしながらその本丸の天守郭を構成する建物の多くは、数度にわたる火災のため消失してしまい、天守も一度は焼失してしまったものの1852年に再建されて、その天守が現在も残っています。

その松山城の特徴として、本丸が山頂の旧地形に従い不整形で扁平気味になっていますが、これは五重の天守が築かれていた天守台の規模を踏襲しつつ、三重の天守を建てたことによると考えられています。また天守は本丸よりも一段高くなった曲輪の中に存在し、本壇(ほんだん)と呼ばれています。また本壇のうち、現存の三重天守と小天守、南北隅櫓は渡櫓にて結んで中庭を取り囲んだ形になっており、姫路城・和歌山城とともに連立式天守に分類されますが、姫路城・和歌山城よりもいっそう縄張りが複雑で堅固な構造になっています。

さらに松山城の本壇は、他の城において連立式といわれる部分の外側に、もう一重の曲輪を備えており、そのため本壇部分が二重構造になり、その中央に天守がそびえています。この天守は、本壇の外側から見上げた場合すべての方向からも壁面が大きく現れており、これは周囲に建つ櫓の位置を巧妙にずらすことによって、天守からの視界を遮らないように工夫されているためといわれています。

また山上の城郭と山裾の二の丸との間は、山の急斜面を登っていく「登り石垣」で結ばれていますが、これは文禄・慶長の役で朝鮮半島の南岸に築かれた倭城と呼ばれる日本城郭において、軍港と城山にある本丸とを結ぶために築かれた登り石垣を国内の城に応用した珍しい例となっており、登り石垣の規模としては国内最大のものになります。

そして本丸や二の丸の石垣は高く、しかも比類なき急勾配であり、全国随一の険阻さを誇っています。また本丸の入り口は巧妙で、門前に迫った敵兵に対し弓矢にて厳しい側面射撃を加えるだけでなく、伏兵を繰り出すための隠門(かくしもん)まで配備していました。

ちなみに近年発見された絵図によると、本壇は現在のような方形を連ねた形態ではなく、多角形になっており、また本壇中央部には池が描かれていました。この絵図の描写は1962年(天守を五重から三重に改築した年)より以前の縄張りを伝える可能性が高いようで、関係者の注目を集めています。