徳川政権の始まりと終焉の場所、二条城で歴史を感じてください

≪二条城≫
【種類】:平城、【所在地】:京都府京都市中京区、【築城年】:1602(慶長7)年、【遺構】:御殿、櫓、城門、石垣、庭園、天守台、堀、【注目ポイント】:①上品な奥ゆかしさを感じさせる現存する8基の城門、②御殿にある金壁障屏画(こんぺきしょうびょうが)と彫刻の数々

二条城は、関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康が、1601年に、上洛の際の宿泊所や朝廷監視の場、さらに儀礼施設として、天下普請(てんかぶしん)での築城に着手し、完成後の1603年にこの城で征夷大将軍拝賀の礼を行い、そして徳川幕府を開きました。

このときの城は、現在の二の丸に相当する場所にありましたが、その後に改築が行われ、三代将軍・家光(いえみつ)のときに、御水尾(ごみずのお)天皇の行幸(ぎょうこう)を迎えるため、本丸御殿と総塗籠(そうぬりごめ)の白亜の五重天守が造られ、今日の城の規模となりました。しかし、天守は1750年に落雷によって焼失してしまいました。現在では現存の二の丸御殿が徳川幕府の栄華を伝えるものの、本丸御殿も市中の火災による類焼で失われてしまい、1894年その場所に京都御苑(きょうとぎょえん)内の旧桂宮(かつらのみや)邸が移築されています。また平成6年には、「古都京都の文化財」のひとつとして世界文化遺産に登録されました。
その二条城は、征夷大将軍拝賀の礼から約260年後、大政奉還が行われることにより、この城は徳川政権の始まりと終わりを告げた城となってしまいました。

さて、ここで二条城にまつわる逸話を少し怖いお話も含めいくつかご紹介します。
1、 二条城は徳川幕府の最初と最後を見た城で、現在では金具に菊のご紋が入っていますが、
その裏側には葵のご紋が入っており、薄っすらと叩いた跡が見えるといわれています。

2、 江戸時代、二条城は徳川幕府における天皇の監視役として京都所司代がおかれていました。 幕末の戊辰戦争の際、城は薩長軍に取り囲まれたうえ、明け渡しを迫られ、そのことに抵抗して多数の死者及び自刃者が出たそうです。その際に血の海になった廊下などが京都のどこかのお寺に血天井として残っているそうです。

3、 現在は、二条公園という名の児童公園として整備されている二条城の北側あたりは、平安時代には宮内省が置かれており、その近くに鵺(ぬえ)池と鵺大明神のほこらが発掘されています。平安時代後期の近衛天皇の頃、鵺という怪物が現れ、夜になると奇怪な声で鳴いたといわれています。弓の名手であった源頼政がその鵺を退治し、その鵺の血がついたやじりをこの池で洗ったことから鵺池と名付けられたそうです。

4、 京都市内にある知恩院は、二条城が落城した際に使う徳川の第二の城として想定されていたそうで、知恩院内の黒門への登り口にある巨石・瓜生石(うりゅうせき)を掘ると、二条城まで続く抜け道があると伝えられています。

以上になりますが、これらはあくまでも噂話の域を出ませんのでご注意ください。
それでは皆様も二条城に赴き、鴬張りの廊下を歩きながら、徳川幕府を儚んでみては如何でしょうか