標高日本一の地に立つ備中松山城の天守は一見の価値あり!

≪備中松山城≫
【種類】:山城、【所在地】:岡山県高梁市内山下、【築城年】:1681(天和元)年、【遺構】:天守、櫓、石垣、土塀、復元櫓、【注目ポイント】:①戦国時代を偲ばせる城域の随所にみられる防御の工夫、②高梁市街に残る城下町の風情

備中松山城は、中国山地と瀬戸内を結ぶ交通の要衝を見下ろす位置にある標高480mの臥牛山(がぎゅううさん)の山頂付近に建っており、現存する天守を持つ城としては最も高いところにある山城となります。鎌倉時代の1240年にこの地の地頭であった秋庭重信(あきばしげのぶ)によって築かれたのが始まりとされ、その後この城は小松山まで拡張され、また城主も縄張も目まぐるしく変わりました。
関ヶ原の合戦後は、代官として備中に入った小堀正次(こぼりまさつぐ)・政一(まさかず:遠州)親子の改修を経て、1681~84年にかけての水野勝宗(みずのやかつむね)の大改修によって近世三大山城とされる最終的な城の形になりました。

城の縄張は4つの峰(北から大松山、天神の丸、小松山、前山)にまたがり、小松山の山頂には二重の天守や二重櫓をはじめとして、大手門、二の丸櫓門、黒門、搦手(からめて)門などが築かれ、本丸を囲むように二の丸、三の丸が階段状に配置されています。これらの多くは水谷勝宗が築いた当時のままの姿で残っており、国の重要文化財にも指定され、平成9年には本丸南御門をはじめ平櫓(ひらやぐら)・土塀などが再建されています。

さて、ここで備中松山城に少しでも興味を持って貰えるよう、逸話をいくつかご紹介します。
1、 この城は1693年にその時の城主であった水谷家において家督を継ぐ子が途切れてしまい3000石の旗本に減封となりました。その際の備中松山城受け渡しには、「忠臣蔵」で有名な赤穂藩主・浅野長矩(あさのながのり)が任ぜられ、現地にはその長矩の名代として浅野家家老・大石内蔵助(おおいしくらのすけ)が、次の藩主になる安藤氏が来るまでの1年半もの間、備中松山城を管理していました。城の明け渡しにあたって大石は単身でこの城に入り、水谷家家老・鶴見内蔵助(つるみくらのすけ)と対談を行い、無事に開城へこぎつけました。大石と鶴見の名が偶然にも同じ内蔵助であったことから「両内蔵助の対決」として評判になったそうです。

2、 明治時代、備中松山城にも廃城令が出ましたが、なぜか御根小屋のみが撤去され、天守はそのまま放置されました。その理由として、あまりにも山が険しく、撤去作業が面倒だったため、という逸話が残っています。その後も改修工事の機運が高まるまで、長年にわたり天守は放置され、あるとき城を訪れた与謝野晶子に「傷ましき城」と詠まれるほど荒廃していましたが、現在では大幅な改修工事が行われ、小ぶりながらも優美な往年の天守の姿が復元されています。
 
3、 備中松山城は、現存12天守のひとつで、そのうち唯一の山城になりますが、兵庫県の「天空の城」と呼ばれる竹田城と同じように、季節によって城に雲海がかかる姿を見ることが出来ます。そのため、「第二の天空の城」と呼ばれて人気を博しています。

以上になります。ぜひ皆さんも日本で最も高いところにある山城の現存天守を見に行って下さい!