首里城で琉球王朝の歴史と伝統を感じてください

≪首里城≫
【種類】:平山城、【所在地】:沖縄県那覇市首里当蔵町、【築城年】:14世紀頃、【遺構】:石垣、門、復元城門、復元正殿、復元北殿、【注目ポイント】:①世界文化遺産に登録され、琉球文化を今に伝える貴重な遺構、②琉球最大の木造建築である正殿や内部に入るときに最初にくぐる歓会門

那覇市の北東、標高130mの丘の上に築かれた首里城は、1427年の記録に城の整備について記されていることから創建はそれ以前だと推定されており、城の基本的な縄張が完成したのは尚真王(しょうしんおう)と尚清王(しょうせいおう)の時代である1477~1555になります。この城は尚巴志(しょうはし)が1429年に三国を統一してからの450年間、琉球王朝の居城としてあり続けると同時に、政治を行う政庁、祭祀を執り行う祭場でもありました。

また城の規模については東西約400m、南北200mとなっており、内郭と外郭で構成されていました。内郭は御庭(うーなー)を中心とした行政空間、その南側にある「京の内(きょうのうち)」という祭祀空間、そして東側の「御内原(おうちばら)」という居住空間から成り立っており、正殿(せいでん)、南殿、北殿などの主となる建物は内郭におかれていて、外郭は内郭の東側を包むように建っていました。

首里城は王位争いによる戦や失火により3度消失しましたが再建され、明治時代になってからは軍が入り、その後は学校になりました。太平洋戦争の際には城のすべてが灰燼(かいじん)に帰(き)してしまったものの、平成4年には正殿などの城の建物が再建され、平成12年には世界文化遺産に登録されました。

さてここで、今では考えられないような、首里城に関する逸話をご紹介します。
首里城は1872年に明治政府のもとでなされた沖縄に対する強行的な廃藩置県である琉球処分の歴史のなかで、さまざまな経験をしており、城としての使用用途以外にも色々なことに使われていました。最後の王である尚泰(しょうたい)が去った後、熊本鎮台分遣隊が首里城を兵舎として使い、さらにその後には、女子実業補修学校が入りました。一時は取り壊して市営住宅を作る案もありましたが、さすがにそれは途中で立ち消えになったそうです。そして、あの第2次世界大戦においては地下に三十二軍司令部壕を作ったため、アメリカ軍からの集中砲火を浴びました。このように非常に数奇な運命をたどった城といえます。

その首里城の正殿前にある大龍柱も同じように散々な目にあっており、このことは「首里城龍柱損壊事件」として今に語り継がれています。その内容とは、明治25年、熊本鎮台分遣隊長が本土への引き上げの際の土産として片方の龍柱を持ち帰ろうとしました。そのとき、その龍柱の胴体が長すぎるということで短く切ってしまいました。その後すぐに、隊長は急死したのです。この事件については、世間では龍のたたりではないかといわれ、大変恐れられました。その後、この事件に関して対処ですが、こうして書くのもさびしくようなお粗末な方法によって大龍柱は復旧しました。それは、まず一方を短くしてしまったので、両方の柱の長さのバランスを取るため、他方も短くしたのです。その上、向かい合っていた龍柱を正面に向けて建ててしまったそうです。この話は首里城の建築的価値が評価されていなかった頃の話であり、現在では考えられない話です。

そんな首里城も今では世界文化遺産に登録され、日本人にとって後世に残していかなければならい大切な史跡となりました。ぜひこの城へ出向いて琉球王朝の歴史を身体全体で感じてみて下さい!