お城と共に桜も堪能できる高遠城はぜひ春に行ってください!

≪高遠城≫
【種類】:平山城、【所在地】:長野県伊那市高遠町、【築城年】:1547(天文16)年、【遺構】:石垣、空堀、土塁、再建櫓、移築城門、【注目ポイント】:①良好な状態で残っている各曲輪を取り囲む深い空堀、②明治に旧藩士たちによって植えられたタカトオコヒガンザクラ

1545年、武田信玄が三峰川(みぶがわ)と藤沢川(ふじさわがわ)の段丘上にあった高遠頼継(たかとおよりつぐ)の高遠城を攻略し、高遠氏を追放した後、山本勘助らに城の大規模な改修を行わせました。三峰川の断崖を背にした本丸を中心に二の丸、三の丸を平面的に配置し、各曲輪の間を土塁や空堀(からぼり)で区切った地形を活かす「後堅固(うしろけんご)」な甲州流の縄張となっています。しかし、武田勝頼(かつより)の実弟である仁科信盛(にしなのぶもり)が城主のとき、織田信長の軍に攻められ、たった1日で落城してしまいました。

その高遠城は戦国時代の築城時の面影を残していましたが、明治時代に一部が埋め立てられてしまいます。しかし、旧藩士たちによってタカトオコヒガンザクラが城址に植えられ、現在ではこれが城内を埋め尽くし、白雪をいただく中央アルプスの景観とあいまって、桜の名所となっています。

さて、ここで高遠城をより感慨深く見学していただけるように、高遠城にまつわる逸話をご紹介します。
作家の井上靖が書いた「風林火山」の中に武田信玄の側室である於琴姫の娘「松姫」という名の美しい娘が出てきます。その松姫が7歳の時に信長の長男・信忠12歳と婚約の約束を親同士が交わしました。しかし松姫11歳の時、京を目指す信玄が三方ヶ原で家康と戦い、将来の義父となる信長が家康側に援軍を送った事で婚約は解消されてしまいました。その後、松姫は兄である仁科信盛の庇護のもと高遠城下の屋敷で暮らしていましたが、1582年に信長が武田領へ攻め入ったため、松姫は信盛の娘3人を連れ今の東京都八王子にある寺へ逃げ込み隠遁生活を送ります。その後、信盛は高遠城の明け渡し等を求めた信忠の使いの耳鼻を削ぎ落とし、降伏せずにわずか3,000の兵で籠城しました。しかし信忠に約2万の兵で城を囲まれ、敵の真っ只中に飛び込んで奮戦した副将の小山田昌行や、女ながらも刀を取って戦った諏訪勝右衛門の妻などの健闘もむなしくついに兄は戦死、また城兵の主だった者ほぼ全てが討死を遂げ、織田勢が討ち取った首級は400を超えたそうです。さらにその9日後に武田家は滅びました。その後の松姫は八王子での逃避生活を経て金照庵に入り、さらに心源院にて出家、そして信松院で生涯を終えるまで、婚約者であった信忠への愛を貫き通したそうです。尚、一説によると武田氏滅亡後、信忠は松姫を迎え入れようとしたともいわれていますが、信忠は本能寺の変が起こり自決してしまいます。

松姫は気丈に姪達を育て、さらには近隣の子ども達へ手習いを教えたりするなど地元に根付き旧臣達はもちろんのこと、その土地の人々からも大変慕われました。また絹織りに長けていた松姫が織った織物が今も「八王子織り」として残っています。
ちなみに「信松院」という名の由来は父・信玄からか、または婚約者信忠なのか、もしくは両方からなのかということは定かではありませんが、情の深い一途な松姫の心情を伺うことが出来ます。後年、家康は天下統一後、尊敬していた信玄の娘が、八王子で暮らしている事を知り、寺領を与えるなど松姫を庇護し、折に触れ消息をたずねたそうです。

皆さんもぜひ春の桜の季節に、気高く美しい松姫を偲びながら高遠城を見学してみて下さい!