侵入する敵が幻惑されるという宇和島城をぜひ体感してください

≪宇和島城≫
【種類】:平山城、【所在地】:愛媛県宇和島市丸之内、【築城年】:1596(慶長元)年、【遺構】:天守、城門、石垣、井戸、【注目ポイント】:①江戸時代に築かれた天守の典型となる、重厚にして華麗な現存する天守、②保存状態の良い石垣びょうが)と彫刻の数々

宇和島城の前身である板島丸串城(いたじままるくしじょう)に関する正確な築城年は、不明ですが、平安末期には建てられていたと伝わっています。リアス式海岸の宇和海の最深部に位置し、城の西側と北側が宇和島湾に面して、海水を堀に引き入れるなど海城の一面も兼ね備えていたその板島丸串城を、1601年に近世城郭へと整えたのは藤堂高虎になります。高虎が移封後、富田(とだ)氏を経て、仙台藩主・伊達政宗の子・秀宗(ひでむね)十万石で入城しました。二代目城主・宗利(むねとし)が老朽化した城の大改修を実施し、高虎が造った望楼型(ぼうろうがた)の天守を、1666年に層塔型(そうとうがた)に替え、千鳥破風(ちどいはふ)や唐破風(からはふ)などに飾られた装飾性の高いその天守が今も残っています。また居館と藩庁(はんちょう)としての機能を持った御濱御殿(おはまごてん)も造られ、その御濱御殿の一角には後に池水回遊式庭園(ちすいかいゆうしきていえん)の天赦園(てんしゃえん)が造られ、現在見学が可能です。

さらに宇和島城の特徴のひとつとして、不等辺五角形の縄張があります。これは藤堂高虎の手によるもので、侵入してきた敵の目を惑わせるのが目的といわれており、現に幕府の隠密が江戸に送った密書の中に「四方の間、合わせて十四町」と、誤って記されているそうで、今でも観光客が宇和島の町を歩くと方向感覚が狂うといわれています。また築城当時の姿を残す三重三階の天守は小ぶりではあるものの、その外観から鶴島城(つるしまじょう)と呼ばれています。

さて、ここで宇和島藩の初代藩主・伊達秀宗に関する逸話をご紹介致します。
1、 宇和島城には1596年に独眼竜で知られる伊達政宗の長男・伊達秀宗が初代藩主として封じられました。伊達家の長男でありながら仙台藩ではなく宇和島藩藩主となった経緯には諸説あるようですが、二代将軍・秀忠の「忠」の字を賜ったこともあり、宇和島藩初代藩主というポストは秀宗を持って行く場所に困った政宗が講じた苦肉の策だったそうです。

2、 秀宗は宇和島藩祖であるに関わらず、宇和島では余り崇敬を集めていなかったようで、宇和島市内には顕彰碑や銅像の類は無く、「秀宗公」と尊称する人もいないそうです。このことについては、幕末・維新期の八代藩主・宗城(むねなり)が名君だったため、その陰に隠れてしまったためといわれています。しかしながら実際には名君だったという話も残っており、参勤交代で宇和島に帰国する途中、海が荒れて船が転覆しそうになった際、秀宗だけが泰然自若として、少しも騒がなかったそうです。また豊臣秀頼と組み討ち遊びをしていた時、年長の秀宗は秀頼を組み敷いたのですが、踏みつける際に咄嗟に懐紙を取り出して、秀頼を直に踏むことをせず、豊臣秀吉・淀殿夫妻をはじめ、豊臣家の面々は秀宗に対し、大いに感心した、とも伝えられています。

3、 秀宗は宇和島藩が支藩扱いされるのを嫌い、三代将軍・徳川家光と御成之間で対面する際、異母弟である忠宗より上座に着座し、自身が政宗の長男として、仙台藩より風上に立っている事を示しました。また秀宗は政宗に似て和歌に堪能だったとも伝わっています。

以上になります。皆さんも江戸幕府の隠密気分で宇和島城内を見学してみては如何でしょうか!