Authorbluefish2017

水に浮かぶ美しい砦のような今治城はあなたを虜にします

≪今治城≫
【種類】:平山城(海城)、【所在地】:愛媛県今治市通町、【築城年】:1602(慶長7)年、【遺構】:石垣、堀、復元天守、復興櫓、復興城門、【注目ポイント】:①昭和58年に復興された天守、②海水が引き入れられた堀

今治城は、1602年に築城の名手・藤堂高虎(とうどうたかとら)が、瀬戸内海の築城予定地に海砂をかき集めて築城に着手しました。1608年に高虎が目指していた直線的な城壁で囲まれた曲輪(くるわ)に、高石垣と広大な水堀を巡らせた画期的な城が完成しました。

今治城の内堀と中堀、外堀の三重の堀すべてには瀬戸内海の海水が引き入れられており、平城でもありましたが、巨大な海城としての性格も併せ持っていました。また本丸には日本初となる層塔型(そうとうがた)の五重天守が建てられ、その天守は飾りの破風(はふ)を持たず、各階が上階に向かうにつれ規則的に小さくなる形をとり、内部には攻撃用の武者走(むしゃばしり)を巡らせた当時では最新式のものとなっていました。しかしこの天守は高虎が転封(てんぽう)となった際に解体されて、その後徳川家へと献上され、丹波亀山(たんばかめやま)城の天守になってしまいました。高虎の後に入った高吉(たかよし)も転封した後、松平(久松)氏が城主となって明治維新に至り、その後廃城となって建物はすべて取り壊されてしまいました。

さてここで、今治城に関する逸話をひとつご紹介します。
今治城を築城する際、砂浜に巨大な城を造るための材料が全然足りなかったので、近隣の国分城や来島城、そして拝志城などが取り壊され、その壊した城から出た資材を活用して造ったと伝えられています。このように苦労した今治城の築城の際にあった面白い話が今も残っています。

主人公は築城を取り仕切る奉行だった渡辺勘兵衛というものになります。ある日、領地一帯に高札が立ちました。その高札には「船一杯の石材を運びたるものには同等の米を与える」と書かれてあり、事実高札に書かれたとおりに米は支給されていました。そのため、船頭たちは競って石材を船に山積みにして築城予定地に運びましたが、石材が予想以上に集まってしまい、藩にはそれに対する米の準備が出来ていませんでした。そこで勘兵衛は「石材はもう必要ないから持って帰ってくれ」と船頭たちにいいましたが、船頭たちもここまで来て持って帰るわけにはいきません。石材を浜辺に置いて帰ってしまいました。そうして捨てられたこの石を使って、勘兵衛は今治城の石垣を完成させたといわれています。知恵者である勘兵衛の名前を今に留めているのは、今治城の東入口にある高さ2.3メートル、幅4.5メートル、重量16トンの堂々たる大きさの「勘兵衛石」で、現在も勘兵衛の功績を賞して置かれています。

まるで一休さんを思い出させるようなゆかいな話ですね。こんな苦労の末に出来た、水に浮かぶ美しい砦のような今治城へ足を延ばして、実際に度勘兵衛石の大きさを見てみてはいかがでしょうか!

山陰唯一の松江城天守から見る宍道湖の夕日がとても美しい

≪松江城≫
【種類】:平山城、【所在地】:島根県松江市殿町、【築城年】:1607(慶長12)年、【遺構】:天守、石垣、井戸跡、復元櫓、復元城門、【注目ポイント】:①天守内部に展示されている日本最大の木製の鯱(しゃち)、②時代を感じさせる野面積(のづらづみ)の石垣

松江城は、関ヶ原の合戦の戦功により、出雲に所領を得た堀尾吉晴(ほりおよしはる)が、1607年に徳川幕府の許可を得て、宍道湖(しんじこ)を見下ろす標高28mの亀田山(かめだやま)に5年の歳月をかけて築きました。城主はその後、堀尾忠晴(ほりおただはる)、京極忠高(きょうごくただたか)を経て、信州松本から徳川家康の孫にあたる松平直政(まつだいらなおまさ)が入り、以後は松平家十代の居城として明治維新を迎えました。

松江城は、別名「千鳥城」とも呼ばれており、山陰地方において唯一現存する天守となります。その天守は外観五重内部六階の望楼型複合式天守で、姫路城に次ぐ平面規模を誇り、正面中央の入母屋破風(いりもやはふ)は豊臣秀吉の大坂城の天守の形式を受け継いだものとなります。一方でこの天守は極めて実践的なものとなっており、板張部分のいたるとことに石落(いしおとし)や狭間(さま)が設けられるなど、防備に関する工夫が凝らされています。また縄張についても、本丸の周囲を多門櫓(たもんやぐら)で囲み、石垣や土塀には屈曲や折れを多用するなど防御性の高いものとなります。

現在、当時のまま残っている建物は天守しかありませんが、南櫓(みなみやぐら)や中櫓(なかやぐら)、太鼓櫓(ったいこやぐら)が復元されており、さらに水堀も当時のまま残っているため当時の威容を偲ぶことが出来ます。

さてここで、松江城に関する逸話をふたつほどご紹介します。
1、 松江城山内にある城山稲荷神社に伝わる話ですが、1638年、家康の孫にあたる松平直政が松江に移ってきたとき、枕元に一人の美しい少年が現れたそうです。その少年は「私はあなたを全ての災厄からお守りする稲荷真左衛門と申します。もし城内に私が住む場所を作ってもらえるならば、城内にある建物はもちろん、あなたの江戸のお屋敷まで火事からお守り致します」と告げて消えてゆきました。そこで直政は城内に稲荷神社を建てたそうです。そのことから、ここの神札は火難除けとして、町中にあるどの家にも貼られていたようで、小泉八雲もこの神札が「松江の唯一の防火設備」と話をしていたそうです。その枕元にたった謎の美少年が、今でも約束どおり松江城や松江の町を守っているに違いないといわれています。

2、 廃藩置県に伴い、松平家から陸軍省の管轄になった松江城は、払い下げられることになり、米一俵が3円弱の時代に天守閣は180円で売りに出されたそうです。これを聞いた出東村(現・斐川町)の豪農・勝部本衛門が、旧松江藩士の高城権八らと共に、保存に立ちあがりました。その熱意が通じて、櫓は落札、解体されたものの、天守閣だけは残り、後に松平家の末裔が松江城一帯を買い取り、1927年に松江市へ寄付し、現在に至っています。

お稲荷様と市民に愛された松江城天守に登り、宍道湖に沈む美しい夕日を眺めてパワーを貰ってみてはいかがでしょうか!

「白虎隊」の悲劇を生んだ会津若松城にはハンカチ持参で!

≪会津若松城≫
【種類】:平山城、【所在地】:福島県会津若松市追手町、【築城年】:1592(文禄元)年、【遺構】:石垣、土塁、堀、復元天守、復元城門、復元櫓、【注目ポイント】:①打込接(うちこみはぎ)で積まれた、本丸東側の美しい高石垣。②五重の天守の内部に展示されている会津の文化財。

室町時代に築かれた葦名(あしな)氏の黒川(くろかわ)城を、蒲生氏郷(がもううじさと)が1592年から改修し、五重七階の天守を築いて、名称も黒川から若松(わかまつ)に改めました。その後も蒲生氏や加藤氏によって、空堀を水堀に変えたり、大地震で破損した七階の天守を五階にするなど、数度にわたって修築が行われた結果、東北地方屈指の名城となりました。

幕末の戊辰戦争(ぼしんせんそう)において、会津藩と新政府軍との戦いの中、会津若松城は1ケ月もの籠城に耐えて、堅牢ぶりを遺憾なく発揮しました。その堅固な城に多用された石垣は野面積(のずらづみ)をはじめとする様々な技法のものがありました。しかしながら戊辰戦争でのダメージにより、明治の初めに天守が取り壊されましたが、1965年に再建されています。この城のことを地元では「鶴ヶ城」と呼んでおり、かつては伊達政宗や上杉景勝(うえすぎかげかつ)も城主となった時代がありました。

さてここで、戊辰戦争が生んだ悲劇のひとつである白虎隊についてご紹介します。
白虎隊は本来、予備兵力と考えられており、隊は士中隊、寄合隊、足軽隊の3隊、およそ340名程度から成っていました。その白虎隊が装備していた火器は旧式銃のみだったそうで、火縄銃よりはましという程度のものでした。ただ白虎隊だけが旧式の装備を与えられていたわけではなく、軍備の更新を行わないまま戊辰戦争に突入した東北諸藩のほとんどの装備は、新政府軍の主力である薩長をはじめとする部隊の装備に対して著しく劣っていました。

会津藩では若松城を死守すべく、若松へと至るそれぞれの街道口に主力部隊を展開させて防備に努めていましたが、圧倒的な物量をもって迫ってくる新政府軍に対しての劣勢を覆すことが出来ず、そのうえ重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗するという防衛戦略上の不備も重なって、本来は城下防衛をするべく組織された白虎隊もこれを支援するために前線へと進軍していきました。少年兵の投入が戦局に与える影響がほとんどないということを誰もが承知していましたが、老若男女が玉砕覚悟で臨む戦いの中にあっては是非もなく、白虎隊は各防衛拠点へと投入されたのです。

しかし会津軍の劣勢はどうにもならず、白虎隊も各所で苦戦を強いられました。そのなかでも最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされ、このうち一番隊は藩主・松平容保の護衛に当たったが、二番隊は戸ノ口原の戦いにおいて決定的打撃を受けて潰走し、戦死者も少なからず出たため、負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びました。しかしここから眺めた戦闘による市中火災の模様を若松城が落城したものと誤認してしまい、総勢20名が自刃し、一命を取り留めた飯沼貞吉を除いた19名が死亡してしまいました。

このような悲劇があった会津若松城ですが、その戊辰戦争では時には一昼夜に砲弾約2,500発を撃ち込まれても落城しなかった、まさに難攻不落の名城でもあります。皆さんもぜひ一度足を運んで、白虎隊が守りたかった城を目に焼き付けてみて下さい!

沖縄の城の中で最も壮大な石垣が残る勝連城は見ごたえあり!

≪勝連城(かつれんじょう)≫
【種類】:平山城、【所在地】:沖縄県うるま市勝連南風原、【築城年】:12~13世紀、【遺構】:石垣、曲輪、井戸、礎石、【注目ポイント】:①現在も残っている沖縄の城の中もっとも壮大な石垣、②首里城とともに世界文化遺産に登録されたグスクのなかで最も築城年代が古い、

勝連城は勝連半島の南の付け根部にある丘陵に建ち、沖縄の城の中でも最も古く、12~13世紀ごろに築かれたと考えられています。最後の城主となった阿麻和利(あまわり)は王権を奪取すべく首里城を攻めましたが、大敗を喫して滅亡し、このことによって首里城の中山(ちゅうざん)王権が確立されたと伝えられています。

勝連城は、標高約100mの台地に、いわゆる本丸と二の丸、三の丸が階段状に連なった構造になっており、南城(へーぐすく)、中間の内、北城(にしぐすく)の形で構成されていました。
城内から中国:元代の陶磁器が出土していることから当時の繁栄が偲ばれます。また城壁の石が道路工事の石材などへの使用のため持ち去られるといったこともありましたが、現在は復元工事によって往時の姿を取り戻されつつあります。そして2000年11月に首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産に登録されました。

さてここで、今なお英雄としての評価が高い阿麻和利についての逸話を紹介します。
勝連城主で、人々から名君と呼ばれた阿麻和利は貿易を推進していました。貿易の内容は主に螺鈿(らでん)細工に使用する貝の輸出や、さらに貿易に関する中継拠点としての活動を積極的に行い、かなりの莫大な富を築いたといわれています。そして注目すべきことがらは、本丸の曲輪にある宝物庫や二の丸にある曲輪の舎殿から、大和系・高麗系の灰色の瓦が出土していることです。これらは日本本土や中国大陸から技術を導入した可能性もありますが、おそらくは他国から輸入したものと考えられており、沖縄のグスクで瓦が出土しているのは首里城と浦添城、そして勝連城だけとなるため、勝連城は王城である首里城に匹敵するほどの経済力や軍事力を持っていたという証明とされています。

このように貿易を通じて、材を蓄え、そして勢力を伸ばしてきた阿麻和利を、琉球王国の国王、尚泰久は恐れ、その阿麻和利への防波堤の役目を名将として知られていた護佐丸に託し、護佐丸を中城城に派遣して守りを固めさせました。さらに自らの娘の百度踏揚(ももとふみあがり)を阿麻和利に嫁がせて身内に取り込むことにより阿麻和利を抑えようとしました。しかし若くて勢いのある阿麻和利の野望は止まることをしらず、謀略によって護佐丸が詰める中城城を滅ぼしたのち、さらには首里城攻略の準備を進めました。この動きを察知した百度踏揚は、従臣の鬼大城(おにうふぐすく)と共に夫の許を逃れ、命からがら勝連城を脱出し、首里城に危急を知らせました。そして首里軍と勝連軍による籠城戦が繰り広げられることになりましたが、勝連城は遂に陥落してしまうことになったそうです。

この伝説には諸説あり史料は残っていませんが、皆さんも沖縄の城の中で最も壮大な石垣が残っている勝連城に立って古の琉球の物語にぜひ思いを馳せてみて下さい!

徳川家の威信を示した日本一の大城郭、江戸城は見どころいっぱい

≪江戸城≫
【種類】:平山城、【所在地】:東京都千代田区・中央区、【築城年】:1457(長禄元)年、【遺構】:城門、番所、石室、石垣、天守台、土塁、堀、【注目ポイント】:①外桜田門・田安門・清水門・平川門の巨大な枡形(ますがた)門、日本最大の天守台石垣、②本丸や二の丸内のモザイクのような色とりどりの石垣、③半蔵門付近の日本最大の土塁

江戸城は1457年に扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)氏の家臣であった太田道灌(おおたどうかん)によって築かれました。その後、豊臣秀吉による関東平定後、江戸に入府した徳川家康は1603年に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になると江戸城を本格的な近世城郭にするべく改築に着手し、秀忠・家光と3代にわたって全国の諸大名を動員する天下普請によって、城の中枢部から総構(そうがまえ)に至るまで築城工事は続けられ、1636年に完成した江戸城は、徳川将軍家の居城にふさわしい日本一の大城郭となりました。

この城の大きな特徴は、縄張の広さになり、三国一の城といわれた大坂城の外堀でさえこの城の内堀の中にすっぽりと収まってしまうくらいの広さになります。また内曲輪(うちくるわ)だけをとってみても現在の千代田区のほぼ全域と、隣接する新宿区、港区にまでまたがり、さらに新橋や赤坂、市ヶ谷、神田から浅草まで水堀と土塁で囲って外曲輪(そとくるわ)を形成しており、まさに日本一にふさわしい威容を誇っていました。ただ、天守については3回建てられましたが、明暦(めいれき)の大火で消失してからは再建されなかったものの、現在、本丸北側に天守台を残し、その巨大さからも当時の江戸城の大きさがうかがい知れます。

さてここで、江戸幕府を開き、江戸城を近世城郭に改築した徳川家康に関する逸話をいくつかご紹介します。
1、 今川家の人質だった時代、家康が鷹狩をしていると、鷹が誤って孕石主水(はらみいしもんど)の屋敷によく迷い込んだそうです。ある日、主水は家康に向かって「人質のくせに鷹狩りをするとは生意気なやつだ。お前の顔には、飽き飽きするわ」と憎らしげにいったそうです。後年、家康が武田氏の高天神城を落とした時、降伏した人間の中に主水がいました。家康は直々に「久しいのう主水。そちがむかし、わしの顔を見飽きたとほざいたのを忘れてはいまい。わしもそちの顔など見飽きたわ。」といって、切腹を命じたといわれています。

2、 天下統一を果たした豊臣秀吉が、あるとき家康をはじめとする諸将に向かって自身が所蔵していた珍しい茶碗などを自慢していました。その際、家康に対して、「貴殿にもなにか人に自慢できるような茶道具などの宝ものはあるかな」と尋ねてみたところ、家康は「私は田舎者なので、秀吉様にお見せできるような茶道具は、なにひとつありません。ただ、私のためならいつでも水火をいとわない家臣が五百騎おり、それが私の宝ものです」と答えたそうです。自慢話に水を差された秀吉はそこで話を切り上げたといわれています。

3、 死期が近いと悟った家康は、見舞いに訪れた諸将に対し、「わしの天寿も終わろうとしている。今後、もし秀忠の政道に誤りがあれば、誰でもよいから変わって天下をとれ。天下はひとりの天下ではなく、天下の天下であるから、天下を取ったものに対してわしは少しも恨みに思うことはない。」と諸将を見渡し言い放ったそうです。

さすがは百戦錬磨の徳川家康というところですね、さてこの家康から数えて15代の将軍たちが居城とした江戸城はやはり一度は見ておくべき城ではないでしょうか! 

首里城で琉球王朝の歴史と伝統を感じてください

≪首里城≫
【種類】:平山城、【所在地】:沖縄県那覇市首里当蔵町、【築城年】:14世紀頃、【遺構】:石垣、門、復元城門、復元正殿、復元北殿、【注目ポイント】:①世界文化遺産に登録され、琉球文化を今に伝える貴重な遺構、②琉球最大の木造建築である正殿や内部に入るときに最初にくぐる歓会門

那覇市の北東、標高130mの丘の上に築かれた首里城は、1427年の記録に城の整備について記されていることから創建はそれ以前だと推定されており、城の基本的な縄張が完成したのは尚真王(しょうしんおう)と尚清王(しょうせいおう)の時代である1477~1555になります。この城は尚巴志(しょうはし)が1429年に三国を統一してからの450年間、琉球王朝の居城としてあり続けると同時に、政治を行う政庁、祭祀を執り行う祭場でもありました。

また城の規模については東西約400m、南北200mとなっており、内郭と外郭で構成されていました。内郭は御庭(うーなー)を中心とした行政空間、その南側にある「京の内(きょうのうち)」という祭祀空間、そして東側の「御内原(おうちばら)」という居住空間から成り立っており、正殿(せいでん)、南殿、北殿などの主となる建物は内郭におかれていて、外郭は内郭の東側を包むように建っていました。

首里城は王位争いによる戦や失火により3度消失しましたが再建され、明治時代になってからは軍が入り、その後は学校になりました。太平洋戦争の際には城のすべてが灰燼(かいじん)に帰(き)してしまったものの、平成4年には正殿などの城の建物が再建され、平成12年には世界文化遺産に登録されました。

さてここで、今では考えられないような、首里城に関する逸話をご紹介します。
首里城は1872年に明治政府のもとでなされた沖縄に対する強行的な廃藩置県である琉球処分の歴史のなかで、さまざまな経験をしており、城としての使用用途以外にも色々なことに使われていました。最後の王である尚泰(しょうたい)が去った後、熊本鎮台分遣隊が首里城を兵舎として使い、さらにその後には、女子実業補修学校が入りました。一時は取り壊して市営住宅を作る案もありましたが、さすがにそれは途中で立ち消えになったそうです。そして、あの第2次世界大戦においては地下に三十二軍司令部壕を作ったため、アメリカ軍からの集中砲火を浴びました。このように非常に数奇な運命をたどった城といえます。

その首里城の正殿前にある大龍柱も同じように散々な目にあっており、このことは「首里城龍柱損壊事件」として今に語り継がれています。その内容とは、明治25年、熊本鎮台分遣隊長が本土への引き上げの際の土産として片方の龍柱を持ち帰ろうとしました。そのとき、その龍柱の胴体が長すぎるということで短く切ってしまいました。その後すぐに、隊長は急死したのです。この事件については、世間では龍のたたりではないかといわれ、大変恐れられました。その後、この事件に関して対処ですが、こうして書くのもさびしくようなお粗末な方法によって大龍柱は復旧しました。それは、まず一方を短くしてしまったので、両方の柱の長さのバランスを取るため、他方も短くしたのです。その上、向かい合っていた龍柱を正面に向けて建ててしまったそうです。この話は首里城の建築的価値が評価されていなかった頃の話であり、現在では考えられない話です。

そんな首里城も今では世界文化遺産に登録され、日本人にとって後世に残していかなければならい大切な史跡となりました。ぜひこの城へ出向いて琉球王朝の歴史を身体全体で感じてみて下さい!

高知城で内助の功で有名な山内一豊と妻の千代を偲んでください

≪高知城≫
【種類】:平山城、【所在地】:高知県高知市丸の内、【築城年】:1601(慶長6)年、【遺構】:天守、櫓門、城門、御殿、土塀、石垣、堀、【注目ポイント】:①江戸時代中期に再建された、山内一豊が創建したものを忠実に再建した天守

関ヶ原の合戦での戦功により、土佐二十四万石を与えられた山内一豊が、遠州掛川(えんしゅうかけがわ)から長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)の築いた浦戸城(うらどじょう)に入城したものの、規模が小さく、城下町も手狭だったため、1601年に南北朝(なんぼくちょう)時代に大高坂松王丸の居城があった大高坂山(おおたかさやま)に築城を開始し、本丸ほかすべてが完成したのは、二代藩主・忠義のときでした。しかし1727年に城が火災に見舞われてしまい、追手門など一部を残して消失してしまいました。その26年後に元の姿に再建されています。

高知城は、山頂に本丸と二の丸を並べ、東側の一段下に三の丸と杉の段などの曲輪が連なって配置された縄張になっており、二の丸には藩主の居住空間である御殿が設けられています。またその縄張の中心に立つ天守は望楼型になっていて、最上階には山内一豊が掛川城を模して作ったといわれている廻縁勾欄(まわりふちこうらん)が付けられています。さらに天守に接続する形になっている本丸御殿(懐徳館:かいとくかん)は全国でも数少ない現存の御殿遺構として大変貴重なものになります。

さてここで、高知城を築城した山内一豊と妻の千代に関するあまりにも有名な逸話を改めてご紹介します。
1、 一豊が15歳のときに、織田信長による岩倉城攻めに参加した父が討ち死にし、一豊は城を追われて浪人となります。その後、身を寄せた牧村政倫が信長の家臣となった際に、一豊も信長に仕えるようになりました。一豊は金ケ先、姉川の合戦において活躍し、敵の放った矢が一豊の顔面を貫通するという深手を負いながらも、敵将をうちとったという話が残っています。

2、 妻の千代は、織田信長が安土に城を築いたころ、京都御所での馬揃えがあったのですが、一豊はまだ駆け出しだったため、良い馬を持っていませんでした。こんな貧相な馬で馬揃えに出れば夫が必ず恥をかいてしまうと考え、嫁入りの際に親が持たせてくれた持参金で一豊に名馬を買い与え、それが元で信長の目に留まり、一豊の出世が始まったといわれています。また関ヶ原の合戦の際、西軍の大将である石田三成からの裏切りを誘う書状の封を切らずに一豊へ届けることにより、家康の信頼を得たなど、良妻としての逸話が多く残っています。

3、 最後に山内家の家紋についてのお話ですが、山内家の家紋は三つ柏で、三菱のマークにそっくりなものです。これは三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎が土佐藩の出身ということで、土佐藩の家紋である三つ柏と岩崎家の家紋である三段菱を組み合わせて三菱にしたということです。

以上になります。高知城には山内一豊の像だけでなく、ちゃんと妻・千代の銅像も建っており、このふたりが高知市民慕われていることが容易に想像できます。こんな仲睦まじい二人にあやかるため、ぜひ一度高知城まで足を運んでみては如何でしょうか!

丸亀城がもつ石垣の見事な曲線美はきっとあなたを魅了します

≪丸亀城≫
【種類】:平山城、【所在地】:香川県丸亀市一番丁、【築城年】:1597(慶長2)年、【遺構】:天守、城門、石垣、堀、【注目ポイント】:①最大の見どころは幾段にも積まれた高石垣、②高石垣の上にそびえる美しい小ぶりの天守

丸亀城は、豊臣秀吉の信任の厚かった生駒正親(いこままさちか)が播州赤穂(ばんしゅうあこう)から讃岐に入り、まずは高松城を築城し、続いて西讃岐の押さえとして、丸亀平野の海抜66mの亀山に、隠居城をも兼ねて1597年から1602年にかけて築城しました。しかし、元和(げんな)の一国一城令によって丸亀城はいったん廃城となってしまいます。その後、生駒家四代ののち、肥前国の富岡城から入城した山崎家治(やまざきいえはる)が1642年から再建にとりかかったものの、後継ぎがなく改易(かいえき)となり、その後に入った高極氏が城を完成させました。現在見ることが出来る天守はこの高極氏が造ったもので、三重の小ぶりなものながら、最上階に入母屋破風(いりもやはふ)、二重目には千鳥破風(ちどいはふ)、最下重には唐破風(からはふ)がしつらえてあり、三段に積み上げられた石垣の上に築かれたその姿は見事という一言に尽きます。

また丸亀城は城山全体に残っている石垣が美しいことで知られており、内堀から天守にかけて四段階に積み重ねられた石垣は、下から上に向かうにしたがって急勾配になるよう組まれていて、「扇の勾配」や「清正流」」などと呼ばれるほどの曲線美を見せています。その丸亀城を、地元では隅櫓(すみやぐら)や多門櫓(たもんやぐら)などを加えて、かつての本丸や二の丸などの主郭部を復活させたいと考えているようです。

さてここで丸亀城に関するお話をふたつほどご紹介します。
1、 むかし羽坂重三郎という男がおり、仕事をするときは常に裸になって一生懸命働くため、まわりからは「裸重三」と呼ばれていました。この男は丸亀城の石垣を完成させた功労者で、殿様も「重三の築いた石垣は完璧だ。鳥以外にはこの石垣を乗り越えることは出来ないだろう」と喜んでいました。しかし、重三郎は「私に一尺余りの鉄棒があれば、簡単にこの石垣に登ることができます」といい、鉄棒を使っていとも簡単に城壁を登ってしまいました。これを見た殿様は、重三郎を生かしておけば、敵が攻めてきて、重三郎が裏切った場合、とんでもないことになると考え、重三郎を騙して城内の井戸の底を探らせて、その井戸に石を投げ込んで重三郎を殺してしまいました。この伝説が残る井戸が二の丸井戸になるそうです。

2、 丸亀城の築城時、雨がしとしと降る夕暮れに、ひとりの豆腐売りが作事場付近で豆腐を
売るために歩いていました。この豆腐売りを、待ち構えていた入夫たちが捕え、用意していた穴に投げ込んで、お城の人柱として、生き埋めにしてしまいました。それ以降、雨が降る夜は城の犠牲となった豆腐売りの怨霊が、「豆腐、豆腐・・・」と泣き続けるのだといわれています。

この他にも二歳で父を殺され、三歳で母を失った弓組足軽の子・里也が剣術修行に励み、京極家が藩をあげてこの里也を援助し、三十年後にみごと父の仇討ちをする話など、いくつかの伝説が伝えられています。

皆さんもぜひ重三郎が造った城壁を見に丸亀城まで足を延ばしてみては如何でしょうか!

中城城の石垣を渡る風で古琉球を感じてください

≪中城城(なかぐすくじょう)≫
【種類】:山城、【所在地】:沖縄県中頭郡中城村、【築城年】:13世紀末~14世紀、【遺構】:石垣、礎石、復元城門拝所、【注目ポイント】:①第二次世界大戦の戦火を逃れ、沖縄県内で最も原型をとどめており世界文化遺産に登録された城跡、②野面積(のづらづみ)、布積(ぬのづみ)、相方積(あいかたづみ)という、すべての年代の特徴が残る石垣

中城城は13世紀末~14世紀に先中城按司(さきなかぐすくあじ)によって築かれ、15世紀末に中山(ちゅうざん)王・尚(しょう)氏の二代目王・尚泰久(しょうたいきゅう)を脅かし始めた勝連城(かつれんじょう)主・阿麻和利(あまわり)をけん制するために、中山王の命令で、家臣の護佐丸(ごさまる)が座喜味城(ざきみじょう)から移り住み、増築した城になります。

城がある中城村は沖縄本島中部に位置しており、石灰岩丘陵上に築かれた城には郭(かく)が6つ、北東から南西のあたりに並んで造られています。また城の西側に木造りの櫓が載っていたと思われる石造りの門があり、近年の調査によりその門が城の正門だったといわれています。

また西の郭はその門をとおって、さらに南の郭を通り過ぎ、そしてアーチ型の門を抜けた先の高い石垣に囲まれた場所に位置しています。当時としては高度であった築城の技術によって造られた中城城の美しさ及び堅牢さをみた、かの有名なペリー艦隊の島内探検隊が驚きを禁じ得なかったといわれています。

そんなすばらしい中城城でしたが、1458年に勝連城主である阿麻和利の策略によって落城の憂き目に遭ってしまいました。その後、尚氏がしばらくの間、使用していた中城城ですが、現在では建物は残っていません。しかしながら一部の石垣や石造拱門(せきぞうきょうもん)などは現存しており、平成12年には城の価値が認められ、世界文化遺産に登録されたのです。

さてここで、中城城を増築した護佐丸盛春についての逸話をご紹介します。
御佐丸は、毛国鼎(もうこくてい)の唐名をもち、琉球が三山(北山・中山・南山)分立の時代から統一に向かった頃の有力な智将であり、かつ琉球で一番の名築城家でした。山田城の城主であった護佐丸は、中山の尚巴志によって行われた北山(ほくざん)討伐に読谷山按司(ゆんたんざあじ)として参陣し、北山が滅亡した後、初代北山監守として北山城に在城しています。琉球王国の統一後、山田城西方4.5kmの丘に戦略的な新城・座喜味城を築いて居城することになり、その座喜味城築城にあたって、遠くは奄美諸島の人々まで工事人夫として徴用し、また山田城より手渡しで積石を持ち運んだといわれています。

その後、琉球王国統一の初期、首里王府の王権はまだ沖縄全土には確立されておらず、勢力を強めていた勝連城主・阿麻和利に脅威を感じ、これ牽制するために、王府の命で中城城に移りました。そこで、御佐丸は、中城城の強化を図るべく、阿麻和利の居城である勝連城に面している北東側に三の曲輪と北の曲輪を増築しました。
しかし、勝連城の阿麻和利と対峙していた琉球王国の忠臣・護佐丸は、阿麻和利の策謀に乗せられ、阿麻和利が総大将をつとめる王府軍の前に、中城城の門を開いて、夫人や子供もろとも自害して果てました。

こういった話は日本の戦国時代にもよくあるものの、やはり気持ちのいいものではありませんね。そんな不運の武将・御佐丸が眠る中城城で沖縄に吹く風を身に受けつつ、古琉球を肌で感じて下さい!

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侵入する敵が幻惑されるという宇和島城をぜひ体感してください

≪宇和島城≫
【種類】:平山城、【所在地】:愛媛県宇和島市丸之内、【築城年】:1596(慶長元)年、【遺構】:天守、城門、石垣、井戸、【注目ポイント】:①江戸時代に築かれた天守の典型となる、重厚にして華麗な現存する天守、②保存状態の良い石垣びょうが)と彫刻の数々

宇和島城の前身である板島丸串城(いたじままるくしじょう)に関する正確な築城年は、不明ですが、平安末期には建てられていたと伝わっています。リアス式海岸の宇和海の最深部に位置し、城の西側と北側が宇和島湾に面して、海水を堀に引き入れるなど海城の一面も兼ね備えていたその板島丸串城を、1601年に近世城郭へと整えたのは藤堂高虎になります。高虎が移封後、富田(とだ)氏を経て、仙台藩主・伊達政宗の子・秀宗(ひでむね)十万石で入城しました。二代目城主・宗利(むねとし)が老朽化した城の大改修を実施し、高虎が造った望楼型(ぼうろうがた)の天守を、1666年に層塔型(そうとうがた)に替え、千鳥破風(ちどいはふ)や唐破風(からはふ)などに飾られた装飾性の高いその天守が今も残っています。また居館と藩庁(はんちょう)としての機能を持った御濱御殿(おはまごてん)も造られ、その御濱御殿の一角には後に池水回遊式庭園(ちすいかいゆうしきていえん)の天赦園(てんしゃえん)が造られ、現在見学が可能です。

さらに宇和島城の特徴のひとつとして、不等辺五角形の縄張があります。これは藤堂高虎の手によるもので、侵入してきた敵の目を惑わせるのが目的といわれており、現に幕府の隠密が江戸に送った密書の中に「四方の間、合わせて十四町」と、誤って記されているそうで、今でも観光客が宇和島の町を歩くと方向感覚が狂うといわれています。また築城当時の姿を残す三重三階の天守は小ぶりではあるものの、その外観から鶴島城(つるしまじょう)と呼ばれています。

さて、ここで宇和島藩の初代藩主・伊達秀宗に関する逸話をご紹介致します。
1、 宇和島城には1596年に独眼竜で知られる伊達政宗の長男・伊達秀宗が初代藩主として封じられました。伊達家の長男でありながら仙台藩ではなく宇和島藩藩主となった経緯には諸説あるようですが、二代将軍・秀忠の「忠」の字を賜ったこともあり、宇和島藩初代藩主というポストは秀宗を持って行く場所に困った政宗が講じた苦肉の策だったそうです。

2、 秀宗は宇和島藩祖であるに関わらず、宇和島では余り崇敬を集めていなかったようで、宇和島市内には顕彰碑や銅像の類は無く、「秀宗公」と尊称する人もいないそうです。このことについては、幕末・維新期の八代藩主・宗城(むねなり)が名君だったため、その陰に隠れてしまったためといわれています。しかしながら実際には名君だったという話も残っており、参勤交代で宇和島に帰国する途中、海が荒れて船が転覆しそうになった際、秀宗だけが泰然自若として、少しも騒がなかったそうです。また豊臣秀頼と組み討ち遊びをしていた時、年長の秀宗は秀頼を組み敷いたのですが、踏みつける際に咄嗟に懐紙を取り出して、秀頼を直に踏むことをせず、豊臣秀吉・淀殿夫妻をはじめ、豊臣家の面々は秀宗に対し、大いに感心した、とも伝えられています。

3、 秀宗は宇和島藩が支藩扱いされるのを嫌い、三代将軍・徳川家光と御成之間で対面する際、異母弟である忠宗より上座に着座し、自身が政宗の長男として、仙台藩より風上に立っている事を示しました。また秀宗は政宗に似て和歌に堪能だったとも伝わっています。

以上になります。皆さんも江戸幕府の隠密気分で宇和島城内を見学してみては如何でしょうか!

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