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徳川政権の始まりと終焉の場所、二条城で歴史を感じてください

≪二条城≫
【種類】:平城、【所在地】:京都府京都市中京区、【築城年】:1602(慶長7)年、【遺構】:御殿、櫓、城門、石垣、庭園、天守台、堀、【注目ポイント】:①上品な奥ゆかしさを感じさせる現存する8基の城門、②御殿にある金壁障屏画(こんぺきしょうびょうが)と彫刻の数々

二条城は、関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康が、1601年に、上洛の際の宿泊所や朝廷監視の場、さらに儀礼施設として、天下普請(てんかぶしん)での築城に着手し、完成後の1603年にこの城で征夷大将軍拝賀の礼を行い、そして徳川幕府を開きました。

このときの城は、現在の二の丸に相当する場所にありましたが、その後に改築が行われ、三代将軍・家光(いえみつ)のときに、御水尾(ごみずのお)天皇の行幸(ぎょうこう)を迎えるため、本丸御殿と総塗籠(そうぬりごめ)の白亜の五重天守が造られ、今日の城の規模となりました。しかし、天守は1750年に落雷によって焼失してしまいました。現在では現存の二の丸御殿が徳川幕府の栄華を伝えるものの、本丸御殿も市中の火災による類焼で失われてしまい、1894年その場所に京都御苑(きょうとぎょえん)内の旧桂宮(かつらのみや)邸が移築されています。また平成6年には、「古都京都の文化財」のひとつとして世界文化遺産に登録されました。
その二条城は、征夷大将軍拝賀の礼から約260年後、大政奉還が行われることにより、この城は徳川政権の始まりと終わりを告げた城となってしまいました。

さて、ここで二条城にまつわる逸話を少し怖いお話も含めいくつかご紹介します。
1、 二条城は徳川幕府の最初と最後を見た城で、現在では金具に菊のご紋が入っていますが、
その裏側には葵のご紋が入っており、薄っすらと叩いた跡が見えるといわれています。

2、 江戸時代、二条城は徳川幕府における天皇の監視役として京都所司代がおかれていました。 幕末の戊辰戦争の際、城は薩長軍に取り囲まれたうえ、明け渡しを迫られ、そのことに抵抗して多数の死者及び自刃者が出たそうです。その際に血の海になった廊下などが京都のどこかのお寺に血天井として残っているそうです。

3、 現在は、二条公園という名の児童公園として整備されている二条城の北側あたりは、平安時代には宮内省が置かれており、その近くに鵺(ぬえ)池と鵺大明神のほこらが発掘されています。平安時代後期の近衛天皇の頃、鵺という怪物が現れ、夜になると奇怪な声で鳴いたといわれています。弓の名手であった源頼政がその鵺を退治し、その鵺の血がついたやじりをこの池で洗ったことから鵺池と名付けられたそうです。

4、 京都市内にある知恩院は、二条城が落城した際に使う徳川の第二の城として想定されていたそうで、知恩院内の黒門への登り口にある巨石・瓜生石(うりゅうせき)を掘ると、二条城まで続く抜け道があると伝えられています。

以上になりますが、これらはあくまでも噂話の域を出ませんのでご注意ください。
それでは皆様も二条城に赴き、鴬張りの廊下を歩きながら、徳川幕府を儚んでみては如何でしょうか

お城と共に桜も堪能できる高遠城はぜひ春に行ってください!

≪高遠城≫
【種類】:平山城、【所在地】:長野県伊那市高遠町、【築城年】:1547(天文16)年、【遺構】:石垣、空堀、土塁、再建櫓、移築城門、【注目ポイント】:①良好な状態で残っている各曲輪を取り囲む深い空堀、②明治に旧藩士たちによって植えられたタカトオコヒガンザクラ

1545年、武田信玄が三峰川(みぶがわ)と藤沢川(ふじさわがわ)の段丘上にあった高遠頼継(たかとおよりつぐ)の高遠城を攻略し、高遠氏を追放した後、山本勘助らに城の大規模な改修を行わせました。三峰川の断崖を背にした本丸を中心に二の丸、三の丸を平面的に配置し、各曲輪の間を土塁や空堀(からぼり)で区切った地形を活かす「後堅固(うしろけんご)」な甲州流の縄張となっています。しかし、武田勝頼(かつより)の実弟である仁科信盛(にしなのぶもり)が城主のとき、織田信長の軍に攻められ、たった1日で落城してしまいました。

その高遠城は戦国時代の築城時の面影を残していましたが、明治時代に一部が埋め立てられてしまいます。しかし、旧藩士たちによってタカトオコヒガンザクラが城址に植えられ、現在ではこれが城内を埋め尽くし、白雪をいただく中央アルプスの景観とあいまって、桜の名所となっています。

さて、ここで高遠城をより感慨深く見学していただけるように、高遠城にまつわる逸話をご紹介します。
作家の井上靖が書いた「風林火山」の中に武田信玄の側室である於琴姫の娘「松姫」という名の美しい娘が出てきます。その松姫が7歳の時に信長の長男・信忠12歳と婚約の約束を親同士が交わしました。しかし松姫11歳の時、京を目指す信玄が三方ヶ原で家康と戦い、将来の義父となる信長が家康側に援軍を送った事で婚約は解消されてしまいました。その後、松姫は兄である仁科信盛の庇護のもと高遠城下の屋敷で暮らしていましたが、1582年に信長が武田領へ攻め入ったため、松姫は信盛の娘3人を連れ今の東京都八王子にある寺へ逃げ込み隠遁生活を送ります。その後、信盛は高遠城の明け渡し等を求めた信忠の使いの耳鼻を削ぎ落とし、降伏せずにわずか3,000の兵で籠城しました。しかし信忠に約2万の兵で城を囲まれ、敵の真っ只中に飛び込んで奮戦した副将の小山田昌行や、女ながらも刀を取って戦った諏訪勝右衛門の妻などの健闘もむなしくついに兄は戦死、また城兵の主だった者ほぼ全てが討死を遂げ、織田勢が討ち取った首級は400を超えたそうです。さらにその9日後に武田家は滅びました。その後の松姫は八王子での逃避生活を経て金照庵に入り、さらに心源院にて出家、そして信松院で生涯を終えるまで、婚約者であった信忠への愛を貫き通したそうです。尚、一説によると武田氏滅亡後、信忠は松姫を迎え入れようとしたともいわれていますが、信忠は本能寺の変が起こり自決してしまいます。

松姫は気丈に姪達を育て、さらには近隣の子ども達へ手習いを教えたりするなど地元に根付き旧臣達はもちろんのこと、その土地の人々からも大変慕われました。また絹織りに長けていた松姫が織った織物が今も「八王子織り」として残っています。
ちなみに「信松院」という名の由来は父・信玄からか、または婚約者信忠なのか、もしくは両方からなのかということは定かではありませんが、情の深い一途な松姫の心情を伺うことが出来ます。後年、家康は天下統一後、尊敬していた信玄の娘が、八王子で暮らしている事を知り、寺領を与えるなど松姫を庇護し、折に触れ消息をたずねたそうです。

皆さんもぜひ春の桜の季節に、気高く美しい松姫を偲びながら高遠城を見学してみて下さい!

気分はマチュピチュ!?雲海に浮かび天空の城と呼ばれる竹田城

≪竹田城≫
【種類】:山城、【所在地】:兵庫県朝来市和田山町、【築城年】:1441~44(嘉吉年間)、【遺構】:天守台、石垣、曲輪、【注目ポイント】:①ほぼ完全な形で残っている石垣と城郭、②見るものを圧倒する山上に残っている石垣の天守台

標高353mの古城山(こじょうざん)の山頂に築かれた竹田城は、室町時代の中期に山名宗全(やまなそうぜん)が家臣の太田垣(おおたがき)氏に造らせたのが始まりとされています。その後、但馬(たじま)攻めによりこの地を支配した豊臣秀吉は、異父弟の秀長に命じて城を整備させました。さらに1585年に城主となった赤松広秀(あかまつひろひで)が大改修に着手し、数年かけて現在みられるような総石垣の壮大な城を築きあげました。しかし広秀は鳥取城攻めの失敗の責任により、徳川家康に切腹を命じられ、その際に城も廃城となりました。

その竹田城の縄張は、古城山の山頂部に羽を広げた鳥のような形で曲輪が配置されており、一部の石垣は改修されているものの、おおむね築城時のままの威容を残しています。高所に城があるため、11月前後には周囲に霧がたち込め、その霧に包まれた際の壮観なたたずまいは、日本のマチュピチュ、又は天空の城と呼ばれ、見るものが息をのむほどに美しいといわれています。

さて、ここで竹田城に行かれる方の気持ちを高めるため、武田城の築城に伴う逸話をご紹介します。
1、 竹田城は300m以上にもなる険しい山頂に築かれましたが、今の時代でも大変な工事だったことが想像できますが、築城時は想像を絶する苦労があったといわれています。その築城の際には、城下の竹田はもちろんのこと、但馬の国中だけではなく、遠くは鳥取や岡山からもたくさんの人々が駆り出され、米どころであった竹田でしたが、農作業に従事する人間がいなくなったため、田んぼが荒れて松の木が生えたなどという話も聞こえてきたそうです。その苦しい作業は13年間も続いたため、村中で夜逃げをする人々が絶えず、窮した奉行は村人に対して「夜逃げをする者は一家一族死罪にする」というお触れを出したそうです。この札は現在も残っており、当時の苦役の証として伝わっています。

2、 城門を建てるために巨大な石を運んでいた際、山の中腹のあたりで、巨石が全く動かなくなり、築城を担当していた奉行もなすすべがなく、諦めてその巨石はそのまま放置されました。その巨石をそこまで運ぶために人足たちが、米を千石食べたということで、この巨石は「千石岩」と呼ばれ、築城の苦しさを語る伝説となりました。

3、 城には水が必要不可欠で、もし水源を断たれた場合は、落城を避けられません。この竹田城の西側に大路山の滝谷と言う水源があり、約2kmもの銅管を設置して城に水を引いたそうです。その水源には千眼寺という名前の寺を建てて、敵の目を欺きました。現在このことを伝える唄が残っており、「黄金千両、銀千両、城のまわりを七まわり、また七まわり七もどり、三つ葉うつぎのその下の六三がやどの下にある」と謎かけのような歌詞となっています。これは水源や銅管の場所を、後世に伝えるためのものだといわれています。
最後にちがう逸話もうひとつ、全国山名氏一族会の理事長と山名氏の菩提寺である法雲寺住職の発案で、かつては宿敵同士であった 山名氏と赤松氏のそれぞれの子孫が、和睦を結び、1988年に竹田城の駐車場脇の谷の一角に「山名赤松両軍慰霊塔」を建立したそうです。
皆さんもぜひ雲海に浮かぶ竹田城を見ながら、苦労した築城時の様子に思いを馳せてみてはいかがでしょうか!

標高日本一の地に立つ備中松山城の天守は一見の価値あり!

≪備中松山城≫
【種類】:山城、【所在地】:岡山県高梁市内山下、【築城年】:1681(天和元)年、【遺構】:天守、櫓、石垣、土塀、復元櫓、【注目ポイント】:①戦国時代を偲ばせる城域の随所にみられる防御の工夫、②高梁市街に残る城下町の風情

備中松山城は、中国山地と瀬戸内を結ぶ交通の要衝を見下ろす位置にある標高480mの臥牛山(がぎゅううさん)の山頂付近に建っており、現存する天守を持つ城としては最も高いところにある山城となります。鎌倉時代の1240年にこの地の地頭であった秋庭重信(あきばしげのぶ)によって築かれたのが始まりとされ、その後この城は小松山まで拡張され、また城主も縄張も目まぐるしく変わりました。
関ヶ原の合戦後は、代官として備中に入った小堀正次(こぼりまさつぐ)・政一(まさかず:遠州)親子の改修を経て、1681~84年にかけての水野勝宗(みずのやかつむね)の大改修によって近世三大山城とされる最終的な城の形になりました。

城の縄張は4つの峰(北から大松山、天神の丸、小松山、前山)にまたがり、小松山の山頂には二重の天守や二重櫓をはじめとして、大手門、二の丸櫓門、黒門、搦手(からめて)門などが築かれ、本丸を囲むように二の丸、三の丸が階段状に配置されています。これらの多くは水谷勝宗が築いた当時のままの姿で残っており、国の重要文化財にも指定され、平成9年には本丸南御門をはじめ平櫓(ひらやぐら)・土塀などが再建されています。

さて、ここで備中松山城に少しでも興味を持って貰えるよう、逸話をいくつかご紹介します。
1、 この城は1693年にその時の城主であった水谷家において家督を継ぐ子が途切れてしまい3000石の旗本に減封となりました。その際の備中松山城受け渡しには、「忠臣蔵」で有名な赤穂藩主・浅野長矩(あさのながのり)が任ぜられ、現地にはその長矩の名代として浅野家家老・大石内蔵助(おおいしくらのすけ)が、次の藩主になる安藤氏が来るまでの1年半もの間、備中松山城を管理していました。城の明け渡しにあたって大石は単身でこの城に入り、水谷家家老・鶴見内蔵助(つるみくらのすけ)と対談を行い、無事に開城へこぎつけました。大石と鶴見の名が偶然にも同じ内蔵助であったことから「両内蔵助の対決」として評判になったそうです。

2、 明治時代、備中松山城にも廃城令が出ましたが、なぜか御根小屋のみが撤去され、天守はそのまま放置されました。その理由として、あまりにも山が険しく、撤去作業が面倒だったため、という逸話が残っています。その後も改修工事の機運が高まるまで、長年にわたり天守は放置され、あるとき城を訪れた与謝野晶子に「傷ましき城」と詠まれるほど荒廃していましたが、現在では大幅な改修工事が行われ、小ぶりながらも優美な往年の天守の姿が復元されています。
 
3、 備中松山城は、現存12天守のひとつで、そのうち唯一の山城になりますが、兵庫県の「天空の城」と呼ばれる竹田城と同じように、季節によって城に雲海がかかる姿を見ることが出来ます。そのため、「第二の天空の城」と呼ばれて人気を博しています。

以上になります。ぜひ皆さんも日本で最も高いところにある山城の現存天守を見に行って下さい!

犬山城は個人が所有!?した唯一の城です

≪犬山城≫
【種類】:平山城、【所在地】:愛知県犬山市犬山、【築城年】:1537(天分6)年、【遺構】:天守、石垣、模擬城門、【注目ポイント】:①間近に見る天守も良いが、木曽川の河川敷から天守を見上げた時の言語を絶する美しさ。

犬山城は1537年、織田信長の叔父信康(のぶやす)が木曽川沿いの標高88mの丘陵上に築いたことから始まりました。その後、何代か城主が替わり、1595年に石川光吉(いしかわみつよし)が城主となりましたが、関ヶ原の合戦の際に西軍に味方をして敗走、かわって小笠原吉次(おがさわらよしつぐ)が入城しました。この石川、小笠原両氏の手によって犬山城は近世城郭として完成し、その城の縄張りは天守の建つ本丸から南へ、杉の丸、樅の丸、桐の丸、松の丸をほぼ連郭式に並べた形で、本丸の背後は木曽川によって守られた、いわゆる「後堅固」の構えになっていました。

1617年、尾張徳川家の重臣・成瀬正成(なるせまさなり)が城主となり、犬山城は成瀬氏9代の居城となり明治維新を迎えましたが、廃藩置県により廃城となり、天守を除く櫓・城門などが取り壊されました。ただ政府が城の修理や整備を条件に成瀬氏に譲渡し、個人所有という珍しい形態が平成16年3月まで続きましたが、現在は財団法人犬山城白帝文庫の所有になっています。

その犬山城の天守は三重四階の望楼型天守に南面と西面に平屋の附櫓が付属する複合天守となっており、また天守台を支える石垣は野面積(のづらづみ)という積み方で、現在は天守のほかに模擬隅櫓と櫓門が石垣の上に再建されており、この城は外観の美しさから、古来より白帝城(はくていじょう)と呼ばれています。

さてここで、犬山城(藩)に関する逸話をひとつご紹介します。徳川家が豊臣家を滅ぼし、天下統一を行った後、家康は尾張藩主・義直(よしなお)や紀伊藩主・頼宣(よりのぶ)が将来兄である二代将軍・秀忠(ひでただ)に叛旗を翻すのを恐れて尾張家、紀伊家に付家老を置くことにしました。最初、候補に挙がった松平康重(まつだいらやすしげ)、永井直勝(ながいなおかつ)は将軍直参の身分にとどまる事を強く望み辞退。成瀬正成(なるせまさしげ)も固く辞退しましたが家康からの懇願、かつ一国の大名に準じる扱いを保障されたため、尾張藩付家老の身分として、犬山城三万石の城主となりました。しかし時が経つにつれ、かつての家康からのお墨付きも忘れられ、大名でない成瀬氏は幕府の役職につくこともできない状況に不満を募らせた七代目城主・成瀬正寿(まさなが)は尾張家目付役を辞退する運動を開始、様々な手を駆使して、まずは他の大名へ根回しを行い、さらには幕府に対して申し出をしましたが結局聞き入れられませんでした。
その後藩士の一部は「金鉄党」と呼ばれる強硬な勤王派として力を持つようになり、そして藩内は勤皇・佐幕の両派による対立に揺れ、また幕府も混乱している中、もはや独立運動どころではなくなり、さらに藩内で「青松葉事件」と呼ばれる佐幕派17人が粛清される事件が起きて、体制は勤皇派にまとまり、維新政府樹立に大きく貢献することとなりました。そして250年もの間、成瀬家を縛り続けてきた徳川幕府が崩壊し、新政府がついに犬山藩発足を承認され、長年の悲願は皮肉にもここに至って成就しましたが、その4年後に廃藩置県となり犬山城も破却と決まりました。しかし町民の懸命な保存運動により犬山城は存続となりますが、明治24年の濃尾大地震で天守閣以外は崩壊し、県が改修費用を負担できなかったため再び犬山城は成瀬氏に譲られることとなったのです。

国宝の天守が美しい松本城をご堪能ください

≪松本城≫
【種類】:平城、【所在地】:長野県松本市丸の内、【築城年】:1590(天正18)年、【遺構】:天守、乾小天守、渡櫓、辰巳付櫓、月見櫓(以上国宝)、石垣、堀【注目ポイント】:①犬山城・彦根城・姫路城と共に国宝に指定されている天守、②月見櫓を従えた天守の美しい姿

室町時代の末期、小笠原(おがさわら)氏が松本の東の山麓に本拠となる林城(はやしじょう)を築いた際に、支城として築城した深志城(ふかしじょう)が松本城の前身といわれています。松本城という名前に改称したのは、一度は武田信玄の手に落ちたものの、武田氏が滅亡した1582年に、小笠原貞慶(おがさわらさだよし)が徳川家康の後ろ盾を受けて深志城を復興した際になります。その後、徳川家康の関東移封により、小笠原氏に代わって石川数正(いしかわかずまさ)が松本城に入って、城の大改築に乗り出し、本丸、二の丸、三の丸などを整備しました。しかし数正の代には完成せず、息子の康長(やすなが)に改修工事は受け継がれ、1592年現在に残る国宝指定の天守・乾小天守(いぬいこてんしゅ)、渡櫓(わたりやぐら)などが完成しました。

松本城の天守は、1615年に新造された五重六階 の大天守を中心として、北側で三重の乾天守を渡櫓で連結し、さらに東側で二重の辰巳附櫓(たつみつけやぐら)と一重二階の月見櫓(つきみやぐら)を複合させた複合連結式の天守となります。美しく均整のとれたこの天守は、犬山城、彦根城、姫路城の天守とともに国宝に指定されており、特に松本城の五重天守は姫路城とともに現在2基しか現存していない非常に貴重な建物となります。また天守の外壁は、どの階も下部を黒漆塗りの下見板で覆っていることもあり、松本城は別名、烏城ともいわれています。

さて、それでは松本城に関する逸話として、庄屋・多田加助の一揆の伝説というものがあますのでここでご紹介します。

ときは江戸時代(1686年ころ)、松本藩領内に暮らしていた農民は長きにわたる不作によって日々の糧にも困る暮らしを送っていました。松本藩は苦しむその領民たちに対して他藩の倍の年貢を納めるよう触れを出したのです。

庄屋の多田加助とその同士は、そのお触れの撤廃を嘆願するため奉行所に訴え出て、さらに加助らの行動に賛同する領民たちも各々が農具を武器として奉行所囲んで参集、あわや一揆か、という緊迫した事態になりました。その際、藩主の水野忠直は参勤交代に出て不在だったため、家老が代わって対応したものの、この騒ぎが幕府に知られ、もし松本藩の取り潰しにでもなったら、藩主に顔向けできないと思ったその家老は、加助たちに対し、一旦要求を飲むと騙して、集まった領民を解散させ、後日加助をはじめとする一族のもの全てを捕らえ、処刑してしまいました。

処刑の直前、松本城の方角を睨みながら「我が怨念で天守閣を傾けてくれようぞ」と絞りだすような声でいったと伝えられています。その後、実際に天守は傾いたのだそうです(実際のところは、その土地の地盤の悪化による傾きによるという話ですが・・・)。
40年後、水野家六代目藩主となった忠恒は、江戸城松の廊下において、乱心のうえ、刀傷事件まで起こし、水野家は改易されてしまいます。このことについて人々は、加助の祟りだと噂し、恐れおののきました。

その後、水野家の代わりに戸田家が松本へ入封した際、加助を義民として表彰し、丁重に供養しました。明治維新の後、加助らは義民として広く知られるようになったそうです。

皆さんも松本城へ見学に行った際に、城が本当に傾いているか確認してみて下さい!

弘前城は築城当時の城郭がほぼ完全な姿で残っています!

≪弘前城≫
【種類】:平城、【所在地】:青森県弘前市白銀町、【築城年】:1611(慶長16)年、【遺構】:天守、櫓、城門、番所、石垣、土塁、堀【注目ポイント】:①現存している五基の門(三の丸追手門、三の丸東門、四の丸北門、二の丸南内門、二の丸東内門)

弘前城は津軽(つがる)統一を成し遂げた津軽為信(つがるためのぶ)の志を継いだ子の信枚(のぶひら)が1611年に築城しました。このときの天守は、本丸西南隅に建てられた三重四階のものでしたが、約15年後に落雷で焼失し、1810年に九代藩主・津軽寧親(やすちか)が本丸の南東隅にある辰巳櫓を三重に改築して天守の代用としました。これが関東・東北地方で唯一現存する貴重な天守となります。

その後、弘前城は津軽氏12代目の居城として明治維新を迎えました。1868年の戊辰戦争の際、弘前藩はいち早く奥羽列藩同盟(おううれっぱんどうめい)を離脱し、新政府軍に加わったため、廃藩置県後も天守や櫓・城門などの貴重な建造物が残ることになりました。
また築城当時の城郭を完全な状態で残している弘前城は、天守のほか櫓など9棟の建物が国の重要文化財に指定されており、中でも三重三階の独立天守は東・南面の一重と二重に白漆喰塗(しろしっくいぬり)の破風や懸魚(げんぎょ)、切妻(きりづま)破風をしつらえるなど、江戸後期の天守としては古風な作りになっています。

さて、ここで弘前城に少しでも興味を持ってもらうために、逸話をいくつかご紹介します。
1、 弘前城の城主・津軽氏の藩祖である津軽為信ですが、ある時は暗殺で、またある時は時の天下人に取り入ることによって、青森一帯の支配者であった南部氏から津軽の覇権を勝ち取った北の梟雄と呼ばれています。その津軽為信は、戦国武将の中でも随一といわれた髭を持ち「髭殿」とも呼ばれており、これは為信が「三国志」の関羽に憧れていたためといわれています。また為信の軍配(ぐんぱい)には「不制干天地人」の文字があり、この言葉の意味は、我は天にも地にも人にも制せられず、だそうです。さらに、為信は梟雄といわれながらも、実は信義に厚いところがあり、関ヶ原の合戦では東軍に与しながらも、過去に恩を受けた西軍の大将・石田三成の子女を戦後に津軽で引き取ったという逸話も残っています。
2、 弘前城は、津軽為信の軍師であった沼田面松斎(ぬまためんしょうさい)の「四神相応」の思想(北:玄武、地勢は丘陵、東:青龍、地勢は流水、西:白虎、地勢は大道、南:朱雀、地勢は湖沼)によって建築場所が選ばれたと伝えられています。また城からみて北の丘陵にあたる部分には当時としては用いられる事の無かった「四」(死に通じるため)の字を用いた「四の郭」を設け、さらに北側の亀甲門を正門としています(北は鬼門の方角なので、普通は正門とすることはあまり例がない)。これにより城の弱点である北側を敵にとっての死地にしたといわれています。
3、 沼田面松斎は祖を西行法師や奥州藤原氏と同じく「俵藤太秀郷」であるとされ、はじめは細川藤孝に仕えていたが、後に諸国を放浪し津軽の地で若き津軽為信に軍師として召し抱えられたとされています。武田流軍学者で陰陽道・易学・天文学に通じ、諸国の事情にも詳しかった沼田面松斎は、弘前城築城時に提案した四神相応の地や津軽為信が秀吉に謁見するための道中で、嵐に遭い舟が難破しかけたときに為信の刀を海に投じ、龍神に祈って嵐を鎮めたなど陰陽道に通じる逸話が多く残されており、また津軽家の家臣団の中では残されている記録が少ないミステリアスな人物といわれています。

世界遺産に選ばれた日本が誇る美しい姫路城を堪能ください

≪姫路城≫
【種類】:平山城、【所在地】:兵庫県姫路市本町、【築城年】:1580(天正8)年、【遺構】:大天守・小天守・櫓・城門・石垣・堀・井戸、【注目ポイント】:①他に類を見ない五重の大天守と小天守の造形美、②城門(菱の門など)や櫓(化粧櫓など)

姫路城は南北朝時代の初めに赤松貞則(あかまつさだのり)がこの地に小さな城を築いたことに始まります。その後、西国攻略の拠点として入城した羽柴秀吉が姫山に三重の天守を築き近世城郭としての体裁を整え、そして姫路城と改称しました。その後、姫路城を今日に残る城の形にしたのは関ヶ原の合戦の後に入城した徳川家康の娘婿でもある池田輝政(いけだてるまさ)で、家康の支援を受けた輝政が9年の歳月を費やして、五重六階地下一階の大天守を完成させました。

さらにその後、本田忠政が西の丸などを増築し、ここに姫山を囲んで、天守を中心に前方には備前丸(びぜんまる)とよばれる本丸、帯閣(たいかく)、上山里廓を、背後には腰廓(こしぐるわ)を配置し、さらに西側には西の丸を置くなど非常に複雑で堅固な名城が完成しました。尚、天守は五重六階の大天守と三重の小天守を渡櫓(わたりやぐら)でつないだ連立式天守で、幾重にも連なる屋根、千鳥破風(ちどりはふ)・唐破風(からはふ)、白漆喰総塗籠造(しろしっくいぬりごめづくり)外装と相まって壮麗な建築美を演出しており、その姿が翼を広げた白鷺を連想されること、また姫路城が姫山と鷺山の二つの丘陵を削ってつくられていることから別名白鷺城とも呼ばれています。

明治時代に失われた箇所も有りましたが、昭和の大修理が施され、平成5年には日本を代表する城として世界遺産に登録されたこともあり、今後も修理を重ねながら将来にわたって今の姿を残していくことになりました。そして、築城から400年目となる2009年から大規模な改修工事が始まっています。

このように姫路城は日本だけではなく世界的にも認められた名城となりますが、その理由を改めてまとめてみると以下に挙げた内容となります。

●姫山という名前の丘を利用した姫路城の造りは平山城に分類されますが、姫路城を造る際の設計や構造となる縄張が一般的に螺旋(らせん)式縄張りと呼ばれるものとなり、
敵の攻撃から城を防衛するラインが幾重にも連なる複雑なものになっています。通常、縄張が城の良し悪しを語るうえで重要なことといわれているなかで、この姫路城の縄張りは名城である証しといえる。

●姫路城は天守の部分が、大天守とそれを渡櫓で結ぶ三つの小天守から成り立つ連立式天守となっており、さらに唐破風や千鳥破風が絶妙なバランスで上手く組み合わされ、加えて城壁面が本来の木地を見えないようにするために白漆喰総塗籠になっていることから、城自体が非常に美しく見える。

●姫路城の構造が全体的に上手くまとまっており、大変バランスがよいため、その姿かたちが他の城の追随を許さないほどに美しく仕上がっていること。

●天守をはじめとして石垣や堀、そして櫓、門など全体で約82ヶ所にもなる建物が、往年の姿のまま残っており、そのことが日本の城郭の研究をするうえで大変役立っていること。

以上のことがらを鑑みてもまず間違いなく姫路城は名城と呼ばれるにふさわしいのではないでしょうか。

あと最後に・・・あの「1枚、2枚・・・」と皿を数え、9枚を数えるとその声はすすり泣きに変わるという、お菊の幽霊で有名な播州皿屋敷の話の中で、お菊が放り込まれたという井戸が、姫路城内の「上山里」に残っていますので、お城を訪れた際にぜひ一度立ち寄ってみて下さい。

ここは万里の長城!?と思わせる松山城の登り石垣は必見です

≪松山城≫
【種類】:平山城、【所在地】:愛媛県松山市丸の内、【築城年】:1602(慶長7)年、【遺構】:天守・城門・櫓・石垣・堀・土塀・復元櫓・復元城門、【注目ポイント】:①万里の長城を思わせる珍しい「登り石垣」、②層塔型天守の完成形といわれた天守

松山城は、賤ヶ岳七本槍(しずがたけななほんやり)のひとりとして知られている加藤嘉明(かとうよしあき)が関ヶ原の戦いでの活躍によって伊予国の半分である20万石に加増され、1602年に道後平野の中央にある標高132m(平山城としては全国で一番高い)の勝山の山上に築城を開始したことに始まります。
五重六階の連立式天守をはじめとして、二の丸及び三の丸を配置した大城郭となり、完成には26年掛かりましたが、その時の城主は加藤家ではなく、蒲生家を経て松平家になっていました。

その後、松平貞行(まつだいらさだゆき)が幕府に遠慮して、五重の天守を三重に改築し、そして楼櫓(ろうやぐら)を改修しました。しかしながらその本丸の天守郭を構成する建物の多くは、数度にわたる火災のため消失してしまい、天守も一度は焼失してしまったものの1852年に再建されて、その天守が現在も残っています。

その松山城の特徴として、本丸が山頂の旧地形に従い不整形で扁平気味になっていますが、これは五重の天守が築かれていた天守台の規模を踏襲しつつ、三重の天守を建てたことによると考えられています。また天守は本丸よりも一段高くなった曲輪の中に存在し、本壇(ほんだん)と呼ばれています。また本壇のうち、現存の三重天守と小天守、南北隅櫓は渡櫓にて結んで中庭を取り囲んだ形になっており、姫路城・和歌山城とともに連立式天守に分類されますが、姫路城・和歌山城よりもいっそう縄張りが複雑で堅固な構造になっています。

さらに松山城の本壇は、他の城において連立式といわれる部分の外側に、もう一重の曲輪を備えており、そのため本壇部分が二重構造になり、その中央に天守がそびえています。この天守は、本壇の外側から見上げた場合すべての方向からも壁面が大きく現れており、これは周囲に建つ櫓の位置を巧妙にずらすことによって、天守からの視界を遮らないように工夫されているためといわれています。

また山上の城郭と山裾の二の丸との間は、山の急斜面を登っていく「登り石垣」で結ばれていますが、これは文禄・慶長の役で朝鮮半島の南岸に築かれた倭城と呼ばれる日本城郭において、軍港と城山にある本丸とを結ぶために築かれた登り石垣を国内の城に応用した珍しい例となっており、登り石垣の規模としては国内最大のものになります。

そして本丸や二の丸の石垣は高く、しかも比類なき急勾配であり、全国随一の険阻さを誇っています。また本丸の入り口は巧妙で、門前に迫った敵兵に対し弓矢にて厳しい側面射撃を加えるだけでなく、伏兵を繰り出すための隠門(かくしもん)まで配備していました。

ちなみに近年発見された絵図によると、本壇は現在のような方形を連ねた形態ではなく、多角形になっており、また本壇中央部には池が描かれていました。この絵図の描写は1962年(天守を五重から三重に改築した年)より以前の縄張りを伝える可能性が高いようで、関係者の注目を集めています。

他とはどう違うの?熊本城の「清正流」と呼ばれる石垣に注目!

≪熊本城≫
【種類】:平山城、【所在地】:熊本県熊本市本丸、【築城年】:1601(慶長6)年、【遺構】:櫓・城門・石垣・塀・井戸・復元天守、復元櫓、【注目ポイント】:①「武者返し」と呼ばれる美しい曲線を描く石垣、②築城名人の加藤清正らしい独特な縄張

54万石の城下町・熊本のシンボルであり、また日本三名城のひとつに数えられている熊本城。城が立っている茶臼山(ちゃうすやま)には、中世の時点ですでに千葉城(ちばじょう)と隈本城(くまもとじょう)があり、出田(いでた)氏⇒鹿子木(かのこぎ)氏⇒城(じょう)氏⇒佐々(さっさ)氏と城主が替わった後、1588年に加藤清正を迎えることになりました。清正は自身得意で、かつ優れた土木技術を駆使して、1601年に築城に着手し、1607年にこの城は完成しました。城郭の周囲は5.3km、面積98万㎡(東京ドーム21個分)。城内には大天守と小天守、49の櫓、18の櫓門、29の城門を持つという堂々たる規模の城となりました。また熊本城には籠城に備えて井戸が約120も掘られ、井戸によっては約40mの深さになっており、それらのうち現在でも17ヶ所の井戸が残っています。

熊本城は加藤家の改易後、約240年間にわたって細川家が居城としました。時を経て、1878年の西南戦争(せいなんせんそう)では、熊本鎮台(ちんだい)司令官・谷千城(たにたてき)以下約3,400名が守る熊本城が、西郷隆盛率いる薩摩軍約13,000名から52日間にもわたる攻撃を受けましたが、天守閣などが焼失したものの落城には至らず、難攻不落の堅固さを天下にしらしめました。
その熊本城は1955年に熊本城公園として国の特別史跡に指定され、1960年には大・小天守の復元、2008年には本丸御殿が落成しました。

さて熊本城の名を高めている特徴のひとつが見事な石垣になります。天下一流といわれた熊本城の石垣は加藤清正の名をとって「清正流(せいしょうりゅう)石組み」と呼ばれました。この石垣は独特な弧を描く扇の勾配になっており、加藤清正が近江(おうみ)国(滋賀県)から率いてきた石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」が持つ特殊技術を活かして造られたといわれ、下は30度くらいで緩やかですが、上に向かうほど角度がついて、最上段では75度の絶壁となっています。この石垣を登って攻撃する武者が、上部で反り返る石垣に行く手を阻まれ、ひっくり返ってしまうため「武者返し」とも呼ばれており、このような石垣は他の城には類を見ません。

また壮大なスケールでそびえ立ち、昔の面影を今に伝える国指定重要文化財の「宇土櫓(うとやぐら)」も大変見ごたえがあります。この櫓は西南戦争をはじめとする戦火から焼け残った唯一の多層櫓で、3層5階、地下1階から成り立っています。特に直線的な破風(はふ)と望楼(ぼうろう)に廻縁勾欄(まわりぶちこうらん)をめぐらした建築様式になっており、大天守・小天守に次ぐ第3の天守といわれています。

さらに石垣の上には平屋の櫓が築かれ、その長さや管理した人物の名前などが付けられており、創建当時のまま櫓が連なった豪壮な様子を見ることが出来る「東竹の丸」もぜひご覧いただきたいポイントです。国重要指定文化財の平櫓や五間櫓、四間櫓、十四間櫓、七間櫓、田子櫓、源之進櫓などが現存しており、その中でも東北隅の高石垣の上に建っている東十八間櫓と北十八間櫓は20mにもなる城内屈指の櫓として知られています。

他にも様々な見どころはまだまだ沢山ありますので、加藤清正の渾身の傑作であるこの熊本城にぜひ一度足を運んでみて下さい!

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