世界遺産にもなっている日本の城にもっと興味を持ってください!

まずは城に関する基礎知識からご説明します

そもそも「城」という漢字の語源は「土」偏に「成」、いわゆる「土で成る」であり、最初に作られた城は地面を掘って土を盛った、つまり土塁によって守られたものでした。しかしながら近世になると土塁が石垣に変わってしまいました。もともとの語源の意味をなさなくなり、現在の城の定義というのは一般的に、敵の攻撃から領地や領民を守るための施設ということになっています。

また城は造られた立地によって山城(山頂部に造られた城)、平山城(丘陵や丘の上に造られた城)、平城(平野部に作られた城)に分類されています。ちなみに山城と平山城には明確な区分けはありませんが、とりあえず山城は場内に居住空間を持たず、山麓に居館があるもの、平山城は山上部にも居住空間があるものとで分けられています。

城の歴史について

先ほども申し上げましたが、城とは敵の攻撃を防ぐために築いた防御施設で、古代の城(き)や柵(き)または都城、さらに中世の領主がもつ居館や山城・砦、そしてまた環濠で囲まれていた寺内町などや江戸末期に各地で築かれた砲台まで含まれます。それらの中において、最も城らしいもののほとんどは戦国時代の末から安土桃山時代、そして江戸初期までの半世紀ほどの間に築かれたものになります。この期間に大きなものから小さなものまで併せると約3000にも及ぶ城郭が建てられました。

しかし大坂夏の陣(1615年)の後、徳川幕府が触れを出した「一国一城令」により、その数は約170城にまで減少し、その後、城の新築だけでなく増改築に至るまで幕府の許可なしには一切できなくなり、明治維新を迎えるまでほぼ同じ推移しました。

さらに武士の世が終わり、明治新政府による城郭の廃城令が明示されるとその数は約1/3にまで激減したのです。しかしながら戦争で被害を蒙った城もありましたが、戦後は城の歴史的価値が見直され、観光資源として多くの焼失した天守閣や櫓・城門などの再建・復興がなされました。

城はこうやって造られました

それでは続いて築城に関する工程をご説明します。城は次のような順序で造られていきます。

① 地選(じせん)・地取(じどり):地理的な条件を考慮し築城の場所をどこにするか決めることです。

② 縄張り(なわばり):敵の攻撃を想定し、どのようにして守るかを考えて設計します。

③普請(ふしん):設計した内容に沿って土塁や垣、堀などを造る土木工事のことです。

③ 作事(さくじ):天守閣や櫓、城門などを造る建築工事になります。

日本国内に城どのくらいあるのか?

さて日本にどれくらいの城があったのかというと、約3~4万といわれています。しかしながらこれらの城の99%は戦国時代の安土城以前の城で、我々が持っている姫路城や彦根城のような天守がある立派なものではなく、山を切り盛りして築いたものになります。

この度は主に近世の城を中心にご紹介してまいりますが、城ごとに築城者が心血を注いで造ったこだわりや工夫があります。そこでお城に興味がない方に少しでも興味を持って頂き、城の見学を楽しんでいただければと思います。

今治城は、1602年に築城の名手・藤堂高虎が、瀬戸内海の築城予定地に海砂をかき集めて築城に着手しました。この城の内堀と中堀、外堀の三重の堀すべてには瀬戸内海の海水が引き入れられており、平城でもありましたが、巨大な海城としての性格も併せ持っていました。

松江城は、堀尾吉晴が宍道湖を見下ろす亀田山に5年の歳月をかけて築きました。また別名「千鳥城」とも呼ばれており、山陰地方において唯一現存する天守となり、その天守は外観五重内部六階の望楼型複合式天守で、姫路城に次ぐ平面規模を誇っています。

室町時代に築かれた葦名氏の黒川城を、蒲生氏郷が1592年から改修し、五重七階の天守を築いて、名称も黒川から若松に改めました。その後も蒲生氏や加藤氏によって、数度にわたる修築が行われた結果、東北地方屈指の名城となりました。

勝連城は勝連半島の南の付け根部にある丘陵に建ち、沖縄の城の中でも最も古く、12~13世紀ごろに築かれたといわれています。この城は、標高約100mの台地に、いわゆる本丸と二の丸、三の丸が階段状に連なった構造になっており、南城、中間の内、北城で構成されていました。