新着記事

お城の構造物とは

日本の城は様々な城郭建築物によって形成されていますが、ここでは目的に応じて組み合わされた構造物をパーツ毎に紹介していきます。

【石垣】
石垣は日本の城を代表する構築物であり、時代と共に進化し、より高く積むことが可能になりました。近世城郭では「高石垣」と呼ばれる壮大な石垣が、伊賀上野城の高さ29mを筆頭に各地で築かれています。
また石垣の種類は、「野面」(不揃いな石をそのまま積む手法)、「打ち込みハギ」(ある程度形をそろえた石を積む手法)、「切り込みハギ」(緻密に加工した石を使い隙間が無いように積む手法)に分かれています。

【堀と塁】
堀については、形態から分類すると水堀と空堀に分けられます。戦国時代の城は山城や丘城が多いことからほとんどが空堀になります。また堀には断面の形による分類もあり、「薬研堀」(断面がV字型。防御力が高く戦国時代の山城の堀切や堅堀に多い)、「箱堀」(箱型の断面をもつ堀で近世城郭の水堀に多い)、「毛抜き堀」(堀底が丸みを帯びたU型で堀の幅がほしい際に使用される)、「台形断面の堀」(戦国時代の土の城の空堀道などで良く見られる)の4つに分かれています。
一方塁については、「土塁」(土を積み上げたもの)と「切岸」(斜面を削って塁壁としたもの)があり、これらは戦国時代のほとんどの城に築かれており、特に土塁は近世城郭でも盛んに使われていました。

【虎口(こぐち)と馬出(うまだし)】
「虎口」とは、城の出入り口のことを指し、敵の攻撃を受けやすい場所であり、同時に城兵が逆襲のために出撃するところにあたります。ちなみに虎口部分に方形の区画を設け、石垣や土塁、塀によって四角を囲い込んだ空間をつくったものを「枡形虎口」といいます。また虎口から兵を挟んだ対岸に土塁で囲われた小さな曲輪を「馬出」といい、さらに平面形が四角いものを「角馬出」、半円形のものを「丸馬出」と呼びます。尚、「出丸」と「馬出」の違いですが、出丸は城全体から独立した曲輪で、馬出は虎口に付属する小曲輪になります。

【塀と狭間(さま)】
城の防御施設は、堀や塁などを組み合わせて作られていますが、その中で最も内側に造られるのが「塀」になります。塀の役目は城兵を矢や鉄砲の弾から守ることですが、逆に言えば塁や堀が足止めした敵を城兵が身を隠しながら弓や鉄砲で攻撃するためのものでもあります。またその塀から敵を攻撃するために造られたものが「狭間」になります。狭間には矢を射るための「矢狭間」と鉄砲を打つための「鉄砲狭間」があります。

【門】
門は虎口で敵の直接的な侵入を防ぐ役目があり、そのため一番敵の攻撃を受けやすい箇所になりますが、逆襲部隊が出撃しやすいということも重要になり、古くから堅固で使いやすい門が工夫されてきました。門の種類としては、「冠木(かぶらぎ)」門」(基本的で一番使われてきたとされ、柱を立て扉の上を横木(冠木)で繋いだもの)、「矢倉門」(冠木門をさらに堅固にするため、門柱のうしろに立てた控え柱と門柱の上に舞台上の櫓を乗せたもの)、「二階門」(矢倉門が鉄砲の普及した織豊期に進化して、壁や屋根の付いた櫓を乗せたもの)などがあります。

1.HOTELハイビスカス
とにかく安いです。合宿気分で楽しく滞在できそうです。

2.藍観光タクシー
モデルコースの紹介もあり京都観光が楽しくなりそうです。

3.日本の旅ドットコム
日本らしい美しい風景の数々で、旅に出たくなるサイトです。

4.「淡海の城」友の会
戦国時代の城好きにはたまらない安土城情報サイトです。

5.戦国ごくう
織田信長を始めとして戦国武将考察が面白いです!

6.ひのもとの史記
古事記の時代の古代日本~封建時代の考察が深くて面白いです。

7.行ってみたい関西地方の観光・行楽地
シーンに合わせて観光地を探せるので暇な休日に役立ちそうです。

8.Be Happy!
沖縄移住の実際のところがよくわかり面白いです。

9.古代遊人の古代史ロマン
古代日本史の考察もですが、コラムもあってお得な感じです。

10.戦国時代の合戦事情
このサイトを読むと、当時の合戦の様子が目に浮かぶようです。

11.城郭写真記録
とにかく写真が多くて、城好きにはたまらないサイトです。

12.征夷大将軍太郎の鎧
思わずフフっと笑いながら見ちゃう面白いサイトです。

13.京都を歩くアルバム
京都を沢山の写真とともに解説されてて観光した気分になれます。

14.南木(なぎ)-楠木正成と南木の謎(楠木正成・正行・正儀・正勝やその一族を探求)
楠木一族への考察がとにかく細かくてびっくりします。

15.眞田丸
真田幸村の真面目な話からクスっと笑える話まであり面白いです。

16.京の宿ゲストハウス 和み
雰囲気のあるゲストハウスで、佛教大学見学の時に良さそうです。

17.旅ニケーション ~新しい出会いと発見~
全国のうまいものめぐりの旅に出たくなるサイトです。

18.VISIT PALESTINE
行った人だからこそ分かるパレスチナ情報は便利です。

19.秘湯への招待 -The源泉-
温泉が大好きなんだなあというのがよく伝わってくるサイトです。

20.日本の歴史ガイド
日本のお城を網羅した、とっても見やすくて画像満載のサイトです。

21.幕末維新写真館
お城や幕末の人物など、たくさんの写真で紹介されています。

水に浮かぶ美しい砦のような今治城はあなたを虜にします

≪今治城≫
【種類】:平山城(海城)、【所在地】:愛媛県今治市通町、【築城年】:1602(慶長7)年、【遺構】:石垣、堀、復元天守、復興櫓、復興城門、【注目ポイント】:①昭和58年に復興された天守、②海水が引き入れられた堀

今治城は、1602年に築城の名手・藤堂高虎(とうどうたかとら)が、瀬戸内海の築城予定地に海砂をかき集めて築城に着手しました。1608年に高虎が目指していた直線的な城壁で囲まれた曲輪(くるわ)に、高石垣と広大な水堀を巡らせた画期的な城が完成しました。

今治城の内堀と中堀、外堀の三重の堀すべてには瀬戸内海の海水が引き入れられており、平城でもありましたが、巨大な海城としての性格も併せ持っていました。また本丸には日本初となる層塔型(そうとうがた)の五重天守が建てられ、その天守は飾りの破風(はふ)を持たず、各階が上階に向かうにつれ規則的に小さくなる形をとり、内部には攻撃用の武者走(むしゃばしり)を巡らせた当時では最新式のものとなっていました。しかしこの天守は高虎が転封(てんぽう)となった際に解体されて、その後徳川家へと献上され、丹波亀山(たんばかめやま)城の天守になってしまいました。高虎の後に入った高吉(たかよし)も転封した後、松平(久松)氏が城主となって明治維新に至り、その後廃城となって建物はすべて取り壊されてしまいました。

さてここで、今治城に関する逸話をひとつご紹介します。
今治城を築城する際、砂浜に巨大な城を造るための材料が全然足りなかったので、近隣の国分城や来島城、そして拝志城などが取り壊され、その壊した城から出た資材を活用して造ったと伝えられています。このように苦労した今治城の築城の際にあった面白い話が今も残っています。

主人公は築城を取り仕切る奉行だった渡辺勘兵衛というものになります。ある日、領地一帯に高札が立ちました。その高札には「船一杯の石材を運びたるものには同等の米を与える」と書かれてあり、事実高札に書かれたとおりに米は支給されていました。そのため、船頭たちは競って石材を船に山積みにして築城予定地に運びましたが、石材が予想以上に集まってしまい、藩にはそれに対する米の準備が出来ていませんでした。そこで勘兵衛は「石材はもう必要ないから持って帰ってくれ」と船頭たちにいいましたが、船頭たちもここまで来て持って帰るわけにはいきません。石材を浜辺に置いて帰ってしまいました。そうして捨てられたこの石を使って、勘兵衛は今治城の石垣を完成させたといわれています。知恵者である勘兵衛の名前を今に留めているのは、今治城の東入口にある高さ2.3メートル、幅4.5メートル、重量16トンの堂々たる大きさの「勘兵衛石」で、現在も勘兵衛の功績を賞して置かれています。

まるで一休さんを思い出させるようなゆかいな話ですね。こんな苦労の末に出来た、水に浮かぶ美しい砦のような今治城へ足を延ばして、実際に度勘兵衛石の大きさを見てみてはいかがでしょうか!

山陰唯一の松江城天守から見る宍道湖の夕日がとても美しい

≪松江城≫
【種類】:平山城、【所在地】:島根県松江市殿町、【築城年】:1607(慶長12)年、【遺構】:天守、石垣、井戸跡、復元櫓、復元城門、【注目ポイント】:①天守内部に展示されている日本最大の木製の鯱(しゃち)、②時代を感じさせる野面積(のづらづみ)の石垣

松江城は、関ヶ原の合戦の戦功により、出雲に所領を得た堀尾吉晴(ほりおよしはる)が、1607年に徳川幕府の許可を得て、宍道湖(しんじこ)を見下ろす標高28mの亀田山(かめだやま)に5年の歳月をかけて築きました。城主はその後、堀尾忠晴(ほりおただはる)、京極忠高(きょうごくただたか)を経て、信州松本から徳川家康の孫にあたる松平直政(まつだいらなおまさ)が入り、以後は松平家十代の居城として明治維新を迎えました。

松江城は、別名「千鳥城」とも呼ばれており、山陰地方において唯一現存する天守となります。その天守は外観五重内部六階の望楼型複合式天守で、姫路城に次ぐ平面規模を誇り、正面中央の入母屋破風(いりもやはふ)は豊臣秀吉の大坂城の天守の形式を受け継いだものとなります。一方でこの天守は極めて実践的なものとなっており、板張部分のいたるとことに石落(いしおとし)や狭間(さま)が設けられるなど、防備に関する工夫が凝らされています。また縄張についても、本丸の周囲を多門櫓(たもんやぐら)で囲み、石垣や土塀には屈曲や折れを多用するなど防御性の高いものとなります。

現在、当時のまま残っている建物は天守しかありませんが、南櫓(みなみやぐら)や中櫓(なかやぐら)、太鼓櫓(ったいこやぐら)が復元されており、さらに水堀も当時のまま残っているため当時の威容を偲ぶことが出来ます。

さてここで、松江城に関する逸話をふたつほどご紹介します。
1、 松江城山内にある城山稲荷神社に伝わる話ですが、1638年、家康の孫にあたる松平直政が松江に移ってきたとき、枕元に一人の美しい少年が現れたそうです。その少年は「私はあなたを全ての災厄からお守りする稲荷真左衛門と申します。もし城内に私が住む場所を作ってもらえるならば、城内にある建物はもちろん、あなたの江戸のお屋敷まで火事からお守り致します」と告げて消えてゆきました。そこで直政は城内に稲荷神社を建てたそうです。そのことから、ここの神札は火難除けとして、町中にあるどの家にも貼られていたようで、小泉八雲もこの神札が「松江の唯一の防火設備」と話をしていたそうです。その枕元にたった謎の美少年が、今でも約束どおり松江城や松江の町を守っているに違いないといわれています。

2、 廃藩置県に伴い、松平家から陸軍省の管轄になった松江城は、払い下げられることになり、米一俵が3円弱の時代に天守閣は180円で売りに出されたそうです。これを聞いた出東村(現・斐川町)の豪農・勝部本衛門が、旧松江藩士の高城権八らと共に、保存に立ちあがりました。その熱意が通じて、櫓は落札、解体されたものの、天守閣だけは残り、後に松平家の末裔が松江城一帯を買い取り、1927年に松江市へ寄付し、現在に至っています。

お稲荷様と市民に愛された松江城天守に登り、宍道湖に沈む美しい夕日を眺めてパワーを貰ってみてはいかがでしょうか!

「白虎隊」の悲劇を生んだ会津若松城にはハンカチ持参で!

≪会津若松城≫
【種類】:平山城、【所在地】:福島県会津若松市追手町、【築城年】:1592(文禄元)年、【遺構】:石垣、土塁、堀、復元天守、復元城門、復元櫓、【注目ポイント】:①打込接(うちこみはぎ)で積まれた、本丸東側の美しい高石垣。②五重の天守の内部に展示されている会津の文化財。

室町時代に築かれた葦名(あしな)氏の黒川(くろかわ)城を、蒲生氏郷(がもううじさと)が1592年から改修し、五重七階の天守を築いて、名称も黒川から若松(わかまつ)に改めました。その後も蒲生氏や加藤氏によって、空堀を水堀に変えたり、大地震で破損した七階の天守を五階にするなど、数度にわたって修築が行われた結果、東北地方屈指の名城となりました。

幕末の戊辰戦争(ぼしんせんそう)において、会津藩と新政府軍との戦いの中、会津若松城は1ケ月もの籠城に耐えて、堅牢ぶりを遺憾なく発揮しました。その堅固な城に多用された石垣は野面積(のずらづみ)をはじめとする様々な技法のものがありました。しかしながら戊辰戦争でのダメージにより、明治の初めに天守が取り壊されましたが、1965年に再建されています。この城のことを地元では「鶴ヶ城」と呼んでおり、かつては伊達政宗や上杉景勝(うえすぎかげかつ)も城主となった時代がありました。

さてここで、戊辰戦争が生んだ悲劇のひとつである白虎隊についてご紹介します。
白虎隊は本来、予備兵力と考えられており、隊は士中隊、寄合隊、足軽隊の3隊、およそ340名程度から成っていました。その白虎隊が装備していた火器は旧式銃のみだったそうで、火縄銃よりはましという程度のものでした。ただ白虎隊だけが旧式の装備を与えられていたわけではなく、軍備の更新を行わないまま戊辰戦争に突入した東北諸藩のほとんどの装備は、新政府軍の主力である薩長をはじめとする部隊の装備に対して著しく劣っていました。

会津藩では若松城を死守すべく、若松へと至るそれぞれの街道口に主力部隊を展開させて防備に努めていましたが、圧倒的な物量をもって迫ってくる新政府軍に対しての劣勢を覆すことが出来ず、そのうえ重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗するという防衛戦略上の不備も重なって、本来は城下防衛をするべく組織された白虎隊もこれを支援するために前線へと進軍していきました。少年兵の投入が戦局に与える影響がほとんどないということを誰もが承知していましたが、老若男女が玉砕覚悟で臨む戦いの中にあっては是非もなく、白虎隊は各防衛拠点へと投入されたのです。

しかし会津軍の劣勢はどうにもならず、白虎隊も各所で苦戦を強いられました。そのなかでも最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされ、このうち一番隊は藩主・松平容保の護衛に当たったが、二番隊は戸ノ口原の戦いにおいて決定的打撃を受けて潰走し、戦死者も少なからず出たため、負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びました。しかしここから眺めた戦闘による市中火災の模様を若松城が落城したものと誤認してしまい、総勢20名が自刃し、一命を取り留めた飯沼貞吉を除いた19名が死亡してしまいました。

このような悲劇があった会津若松城ですが、その戊辰戦争では時には一昼夜に砲弾約2,500発を撃ち込まれても落城しなかった、まさに難攻不落の名城でもあります。皆さんもぜひ一度足を運んで、白虎隊が守りたかった城を目に焼き付けてみて下さい!

copyright © castle-of-japan.com