≪江戸城≫
【種類】:平山城、【所在地】:東京都千代田区・中央区、【築城年】:1457(長禄元)年、【遺構】:城門、番所、石室、石垣、天守台、土塁、堀、【注目ポイント】:①外桜田門・田安門・清水門・平川門の巨大な枡形(ますがた)門、日本最大の天守台石垣、②本丸や二の丸内のモザイクのような色とりどりの石垣、③半蔵門付近の日本最大の土塁

江戸城は1457年に扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)氏の家臣であった太田道灌(おおたどうかん)によって築かれました。その後、豊臣秀吉による関東平定後、江戸に入府した徳川家康は1603年に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になると江戸城を本格的な近世城郭にするべく改築に着手し、秀忠・家光と3代にわたって全国の諸大名を動員する天下普請によって、城の中枢部から総構(そうがまえ)に至るまで築城工事は続けられ、1636年に完成した江戸城は、徳川将軍家の居城にふさわしい日本一の大城郭となりました。

この城の大きな特徴は、縄張の広さになり、三国一の城といわれた大坂城の外堀でさえこの城の内堀の中にすっぽりと収まってしまうくらいの広さになります。また内曲輪(うちくるわ)だけをとってみても現在の千代田区のほぼ全域と、隣接する新宿区、港区にまでまたがり、さらに新橋や赤坂、市ヶ谷、神田から浅草まで水堀と土塁で囲って外曲輪(そとくるわ)を形成しており、まさに日本一にふさわしい威容を誇っていました。ただ、天守については3回建てられましたが、明暦(めいれき)の大火で消失してからは再建されなかったものの、現在、本丸北側に天守台を残し、その巨大さからも当時の江戸城の大きさがうかがい知れます。

さてここで、江戸幕府を開き、江戸城を近世城郭に改築した徳川家康に関する逸話をいくつかご紹介します。
1、 今川家の人質だった時代、家康が鷹狩をしていると、鷹が誤って孕石主水(はらみいしもんど)の屋敷によく迷い込んだそうです。ある日、主水は家康に向かって「人質のくせに鷹狩りをするとは生意気なやつだ。お前の顔には、飽き飽きするわ」と憎らしげにいったそうです。後年、家康が武田氏の高天神城を落とした時、降伏した人間の中に主水がいました。家康は直々に「久しいのう主水。そちがむかし、わしの顔を見飽きたとほざいたのを忘れてはいまい。わしもそちの顔など見飽きたわ。」といって、切腹を命じたといわれています。

2、 天下統一を果たした豊臣秀吉が、あるとき家康をはじめとする諸将に向かって自身が所蔵していた珍しい茶碗などを自慢していました。その際、家康に対して、「貴殿にもなにか人に自慢できるような茶道具などの宝ものはあるかな」と尋ねてみたところ、家康は「私は田舎者なので、秀吉様にお見せできるような茶道具は、なにひとつありません。ただ、私のためならいつでも水火をいとわない家臣が五百騎おり、それが私の宝ものです」と答えたそうです。自慢話に水を差された秀吉はそこで話を切り上げたといわれています。

3、 死期が近いと悟った家康は、見舞いに訪れた諸将に対し、「わしの天寿も終わろうとしている。今後、もし秀忠の政道に誤りがあれば、誰でもよいから変わって天下をとれ。天下はひとりの天下ではなく、天下の天下であるから、天下を取ったものに対してわしは少しも恨みに思うことはない。」と諸将を見渡し言い放ったそうです。

さすがは百戦錬磨の徳川家康というところですね、さてこの家康から数えて15代の将軍たちが居城とした江戸城はやはり一度は見ておくべき城ではないでしょうか!