≪犬山城≫
【種類】:平山城、【所在地】:愛知県犬山市犬山、【築城年】:1537(天分6)年、【遺構】:天守、石垣、模擬城門、【注目ポイント】:①間近に見る天守も良いが、木曽川の河川敷から天守を見上げた時の言語を絶する美しさ。

犬山城は1537年、織田信長の叔父信康(のぶやす)が木曽川沿いの標高88mの丘陵上に築いたことから始まりました。その後、何代か城主が替わり、1595年に石川光吉(いしかわみつよし)が城主となりましたが、関ヶ原の合戦の際に西軍に味方をして敗走、かわって小笠原吉次(おがさわらよしつぐ)が入城しました。この石川、小笠原両氏の手によって犬山城は近世城郭として完成し、その城の縄張りは天守の建つ本丸から南へ、杉の丸、樅の丸、桐の丸、松の丸をほぼ連郭式に並べた形で、本丸の背後は木曽川によって守られた、いわゆる「後堅固」の構えになっていました。

1617年、尾張徳川家の重臣・成瀬正成(なるせまさなり)が城主となり、犬山城は成瀬氏9代の居城となり明治維新を迎えましたが、廃藩置県により廃城となり、天守を除く櫓・城門などが取り壊されました。ただ政府が城の修理や整備を条件に成瀬氏に譲渡し、個人所有という珍しい形態が平成16年3月まで続きましたが、現在は財団法人犬山城白帝文庫の所有になっています。

その犬山城の天守は三重四階の望楼型天守に南面と西面に平屋の附櫓が付属する複合天守となっており、また天守台を支える石垣は野面積(のづらづみ)という積み方で、現在は天守のほかに模擬隅櫓と櫓門が石垣の上に再建されており、この城は外観の美しさから、古来より白帝城(はくていじょう)と呼ばれています。

さてここで、犬山城(藩)に関する逸話をひとつご紹介します。徳川家が豊臣家を滅ぼし、天下統一を行った後、家康は尾張藩主・義直(よしなお)や紀伊藩主・頼宣(よりのぶ)が将来兄である二代将軍・秀忠(ひでただ)に叛旗を翻すのを恐れて尾張家、紀伊家に付家老を置くことにしました。最初、候補に挙がった松平康重(まつだいらやすしげ)、永井直勝(ながいなおかつ)は将軍直参の身分にとどまる事を強く望み辞退。成瀬正成(なるせまさしげ)も固く辞退しましたが家康からの懇願、かつ一国の大名に準じる扱いを保障されたため、尾張藩付家老の身分として、犬山城三万石の城主となりました。しかし時が経つにつれ、かつての家康からのお墨付きも忘れられ、大名でない成瀬氏は幕府の役職につくこともできない状況に不満を募らせた七代目城主・成瀬正寿(まさなが)は尾張家目付役を辞退する運動を開始、様々な手を駆使して、まずは他の大名へ根回しを行い、さらには幕府に対して申し出をしましたが結局聞き入れられませんでした。
その後藩士の一部は「金鉄党」と呼ばれる強硬な勤王派として力を持つようになり、そして藩内は勤皇・佐幕の両派による対立に揺れ、また幕府も混乱している中、もはや独立運動どころではなくなり、さらに藩内で「青松葉事件」と呼ばれる佐幕派17人が粛清される事件が起きて、体制は勤皇派にまとまり、維新政府樹立に大きく貢献することとなりました。そして250年もの間、成瀬家を縛り続けてきた徳川幕府が崩壊し、新政府がついに犬山藩発足を承認され、長年の悲願は皮肉にもここに至って成就しましたが、その4年後に廃藩置県となり犬山城も破却と決まりました。しかし町民の懸命な保存運動により犬山城は存続となりますが、明治24年の濃尾大地震で天守閣以外は崩壊し、県が改修費用を負担できなかったため再び犬山城は成瀬氏に譲られることとなったのです。