≪竹田城≫
【種類】:山城、【所在地】:兵庫県朝来市和田山町、【築城年】:1441~44(嘉吉年間)、【遺構】:天守台、石垣、曲輪、【注目ポイント】:①ほぼ完全な形で残っている石垣と城郭、②見るものを圧倒する山上に残っている石垣の天守台

標高353mの古城山(こじょうざん)の山頂に築かれた竹田城は、室町時代の中期に山名宗全(やまなそうぜん)が家臣の太田垣(おおたがき)氏に造らせたのが始まりとされています。その後、但馬(たじま)攻めによりこの地を支配した豊臣秀吉は、異父弟の秀長に命じて城を整備させました。さらに1585年に城主となった赤松広秀(あかまつひろひで)が大改修に着手し、数年かけて現在みられるような総石垣の壮大な城を築きあげました。しかし広秀は鳥取城攻めの失敗の責任により、徳川家康に切腹を命じられ、その際に城も廃城となりました。

その竹田城の縄張は、古城山の山頂部に羽を広げた鳥のような形で曲輪が配置されており、一部の石垣は改修されているものの、おおむね築城時のままの威容を残しています。高所に城があるため、11月前後には周囲に霧がたち込め、その霧に包まれた際の壮観なたたずまいは、日本のマチュピチュ、又は天空の城と呼ばれ、見るものが息をのむほどに美しいといわれています。

さて、ここで竹田城に行かれる方の気持ちを高めるため、武田城の築城に伴う逸話をご紹介します。
1、 竹田城は300m以上にもなる険しい山頂に築かれましたが、今の時代でも大変な工事だったことが想像できますが、築城時は想像を絶する苦労があったといわれています。その築城の際には、城下の竹田はもちろんのこと、但馬の国中だけではなく、遠くは鳥取や岡山からもたくさんの人々が駆り出され、米どころであった竹田でしたが、農作業に従事する人間がいなくなったため、田んぼが荒れて松の木が生えたなどという話も聞こえてきたそうです。その苦しい作業は13年間も続いたため、村中で夜逃げをする人々が絶えず、窮した奉行は村人に対して「夜逃げをする者は一家一族死罪にする」というお触れを出したそうです。この札は現在も残っており、当時の苦役の証として伝わっています。

2、 城門を建てるために巨大な石を運んでいた際、山の中腹のあたりで、巨石が全く動かなくなり、築城を担当していた奉行もなすすべがなく、諦めてその巨石はそのまま放置されました。その巨石をそこまで運ぶために人足たちが、米を千石食べたということで、この巨石は「千石岩」と呼ばれ、築城の苦しさを語る伝説となりました。

3、 城には水が必要不可欠で、もし水源を断たれた場合は、落城を避けられません。この竹田城の西側に大路山の滝谷と言う水源があり、約2kmもの銅管を設置して城に水を引いたそうです。その水源には千眼寺という名前の寺を建てて、敵の目を欺きました。現在このことを伝える唄が残っており、「黄金千両、銀千両、城のまわりを七まわり、また七まわり七もどり、三つ葉うつぎのその下の六三がやどの下にある」と謎かけのような歌詞となっています。これは水源や銅管の場所を、後世に伝えるためのものだといわれています。
最後にちがう逸話もうひとつ、全国山名氏一族会の理事長と山名氏の菩提寺である法雲寺住職の発案で、かつては宿敵同士であった 山名氏と赤松氏のそれぞれの子孫が、和睦を結び、1988年に竹田城の駐車場脇の谷の一角に「山名赤松両軍慰霊塔」を建立したそうです。
皆さんもぜひ雲海に浮かぶ竹田城を見ながら、苦労した築城時の様子に思いを馳せてみてはいかがでしょうか!