≪姫路城≫
【種類】:平山城、【所在地】:兵庫県姫路市本町、【築城年】:1580(天正8)年、【遺構】:大天守・小天守・櫓・城門・石垣・堀・井戸、【注目ポイント】:①他に類を見ない五重の大天守と小天守の造形美、②城門(菱の門など)や櫓(化粧櫓など)

姫路城は南北朝時代の初めに赤松貞則(あかまつさだのり)がこの地に小さな城を築いたことに始まります。その後、西国攻略の拠点として入城した羽柴秀吉が姫山に三重の天守を築き近世城郭としての体裁を整え、そして姫路城と改称しました。その後、姫路城を今日に残る城の形にしたのは関ヶ原の合戦の後に入城した徳川家康の娘婿でもある池田輝政(いけだてるまさ)で、家康の支援を受けた輝政が9年の歳月を費やして、五重六階地下一階の大天守を完成させました。

さらにその後、本田忠政が西の丸などを増築し、ここに姫山を囲んで、天守を中心に前方には備前丸(びぜんまる)とよばれる本丸、帯閣(たいかく)、上山里廓を、背後には腰廓(こしぐるわ)を配置し、さらに西側には西の丸を置くなど非常に複雑で堅固な名城が完成しました。尚、天守は五重六階の大天守と三重の小天守を渡櫓(わたりやぐら)でつないだ連立式天守で、幾重にも連なる屋根、千鳥破風(ちどりはふ)・唐破風(からはふ)、白漆喰総塗籠造(しろしっくいぬりごめづくり)外装と相まって壮麗な建築美を演出しており、その姿が翼を広げた白鷺を連想されること、また姫路城が姫山と鷺山の二つの丘陵を削ってつくられていることから別名白鷺城とも呼ばれています。

明治時代に失われた箇所も有りましたが、昭和の大修理が施され、平成5年には日本を代表する城として世界遺産に登録されたこともあり、今後も修理を重ねながら将来にわたって今の姿を残していくことになりました。そして、築城から400年目となる2009年から大規模な改修工事が始まっています。

このように姫路城は日本だけではなく世界的にも認められた名城となりますが、その理由を改めてまとめてみると以下に挙げた内容となります。

●姫山という名前の丘を利用した姫路城の造りは平山城に分類されますが、姫路城を造る際の設計や構造となる縄張が一般的に螺旋(らせん)式縄張りと呼ばれるものとなり、
敵の攻撃から城を防衛するラインが幾重にも連なる複雑なものになっています。通常、縄張が城の良し悪しを語るうえで重要なことといわれているなかで、この姫路城の縄張りは名城である証しといえる。

●姫路城は天守の部分が、大天守とそれを渡櫓で結ぶ三つの小天守から成り立つ連立式天守となっており、さらに唐破風や千鳥破風が絶妙なバランスで上手く組み合わされ、加えて城壁面が本来の木地を見えないようにするために白漆喰総塗籠になっていることから、城自体が非常に美しく見える。

●姫路城の構造が全体的に上手くまとまっており、大変バランスがよいため、その姿かたちが他の城の追随を許さないほどに美しく仕上がっていること。

●天守をはじめとして石垣や堀、そして櫓、門など全体で約82ヶ所にもなる建物が、往年の姿のまま残っており、そのことが日本の城郭の研究をするうえで大変役立っていること。

以上のことがらを鑑みてもまず間違いなく姫路城は名城と呼ばれるにふさわしいのではないでしょうか。

あと最後に・・・あの「1枚、2枚・・・」と皿を数え、9枚を数えるとその声はすすり泣きに変わるという、お菊の幽霊で有名な播州皿屋敷の話の中で、お菊が放り込まれたという井戸が、姫路城内の「上山里」に残っていますので、お城を訪れた際にぜひ一度立ち寄ってみて下さい。