≪弘前城≫
【種類】:平城、【所在地】:青森県弘前市白銀町、【築城年】:1611(慶長16)年、【遺構】:天守、櫓、城門、番所、石垣、土塁、堀【注目ポイント】:①現存している五基の門(三の丸追手門、三の丸東門、四の丸北門、二の丸南内門、二の丸東内門)

弘前城は津軽(つがる)統一を成し遂げた津軽為信(つがるためのぶ)の志を継いだ子の信枚(のぶひら)が1611年に築城しました。このときの天守は、本丸西南隅に建てられた三重四階のものでしたが、約15年後に落雷で焼失し、1810年に九代藩主・津軽寧親(やすちか)が本丸の南東隅にある辰巳櫓を三重に改築して天守の代用としました。これが関東・東北地方で唯一現存する貴重な天守となります。

その後、弘前城は津軽氏12代目の居城として明治維新を迎えました。1868年の戊辰戦争の際、弘前藩はいち早く奥羽列藩同盟(おううれっぱんどうめい)を離脱し、新政府軍に加わったため、廃藩置県後も天守や櫓・城門などの貴重な建造物が残ることになりました。
また築城当時の城郭を完全な状態で残している弘前城は、天守のほか櫓など9棟の建物が国の重要文化財に指定されており、中でも三重三階の独立天守は東・南面の一重と二重に白漆喰塗(しろしっくいぬり)の破風や懸魚(げんぎょ)、切妻(きりづま)破風をしつらえるなど、江戸後期の天守としては古風な作りになっています。

さて、ここで弘前城に少しでも興味を持ってもらうために、逸話をいくつかご紹介します。
1、 弘前城の城主・津軽氏の藩祖である津軽為信ですが、ある時は暗殺で、またある時は時の天下人に取り入ることによって、青森一帯の支配者であった南部氏から津軽の覇権を勝ち取った北の梟雄と呼ばれています。その津軽為信は、戦国武将の中でも随一といわれた髭を持ち「髭殿」とも呼ばれており、これは為信が「三国志」の関羽に憧れていたためといわれています。また為信の軍配(ぐんぱい)には「不制干天地人」の文字があり、この言葉の意味は、我は天にも地にも人にも制せられず、だそうです。さらに、為信は梟雄といわれながらも、実は信義に厚いところがあり、関ヶ原の合戦では東軍に与しながらも、過去に恩を受けた西軍の大将・石田三成の子女を戦後に津軽で引き取ったという逸話も残っています。
2、 弘前城は、津軽為信の軍師であった沼田面松斎(ぬまためんしょうさい)の「四神相応」の思想(北:玄武、地勢は丘陵、東:青龍、地勢は流水、西:白虎、地勢は大道、南:朱雀、地勢は湖沼)によって建築場所が選ばれたと伝えられています。また城からみて北の丘陵にあたる部分には当時としては用いられる事の無かった「四」(死に通じるため)の字を用いた「四の郭」を設け、さらに北側の亀甲門を正門としています(北は鬼門の方角なので、普通は正門とすることはあまり例がない)。これにより城の弱点である北側を敵にとっての死地にしたといわれています。
3、 沼田面松斎は祖を西行法師や奥州藤原氏と同じく「俵藤太秀郷」であるとされ、はじめは細川藤孝に仕えていたが、後に諸国を放浪し津軽の地で若き津軽為信に軍師として召し抱えられたとされています。武田流軍学者で陰陽道・易学・天文学に通じ、諸国の事情にも詳しかった沼田面松斎は、弘前城築城時に提案した四神相応の地や津軽為信が秀吉に謁見するための道中で、嵐に遭い舟が難破しかけたときに為信の刀を海に投じ、龍神に祈って嵐を鎮めたなど陰陽道に通じる逸話が多く残されており、また津軽家の家臣団の中では残されている記録が少ないミステリアスな人物といわれています。